18/5/2 表現の違いをこえて
4月29日に書いたnote「自分本位に生きる」について、複数の方からコメントをいただきましたので、改めてちょっと触れておきます。
ところで先日の御忌法要の際、うちの住職が挨拶で浄土宗のおしえの現代的意義に触れて「阿弥陀様を拠り所とすることで、ついつい自分本位に生きてしまう私たちの傲慢さを抑制する」ことを話されていました。たしかにその通りなのですが、どうもこれは事情が逆ではないかと感じます。よくよく考えてみれば、私たちはあまりに自分本位に生きられていないのではないでしょうか。
これですが、結局のところ住職(父)にしろ私にしろ言いたいのは、「自分のエゴ、多様な欲望が存在することを正面から見据える中から、他者への慈悲や共生をも模索する」という着地点であることはおそらく同じなんですね。ただ、父は「自分本位であることの傲慢さを抑制しよう」と言ったほうが適しているという時代認識なんでしょうし、私は「本当の意味で自分本位に生きましょう」と言ったほうが適しているという時代認識なので、その違いから表現の仕方が180度変わっているのだと思われます。もちろん、どちらかが正しくてどちらかがまちがっているということではありません。
「ただ一向に念仏すべし」とだけ懸命に布教することによって、人々がただ一向に念仏するようになるのであれば話はシンプルなのですが、現実はそういうわけにはいきません。これだけ価値観が多様化している現代において、お坊さんや在俗の方を含めた「チーム仏教」が社会にもたらすことのできる価値は何なのかを見つめた上で、できるだけ色んな立場・興味関心から発信できるよう、それぞれの表現方法を積極的に選択することを勧め、支え合う。今後はそんな協力体制を取っていかないとなあと思っています。
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