「私、あと数ヶ月で死ぬんですよ」
箒を持って新幹線に乗り、2015年9月、光博は上京した。
「8年も住んでもらって、ありがとうございました」
退去の立ち会いはスムーズに終わった。
「箒とか、引き取ってもらえないですか。掃除に使ったんですけど」
「いやー、それはご自身で処分してもらわないといけないんです」
「あーですよね、わかりました」
今にも破れそうな紙袋から安い箒の柄を飛び出させて、長く住んだアパートを後にした。
日が低くなり、15時でも影が長い。でも、残暑は厳しい。停留所でバスを待った。
高齢者に配慮したバスの空調は光博には物足りないが、これが最後の乗車だと思うと淋しさもあった。すぐに、バスはターミナルに到着した。
平日の金沢駅に人はまばらで、東京行きのはくたかを待つホームでも人の列はなかった。問題なく自由席に座れそうだ。
列車が到着して、東京から乗ってきた人たちが降りた。
車内清掃のため開いたままのドアの前で、光博は待っていた。
「あの紙袋、なんでしょうね?」
急に声がかけられた。すぐ横で乗車を待っていたおばさんだ。彼女が指差す方を見ると、たしかに車内の不自然なところに、茶色の紙袋が置かれている。マクドナルドのロゴもない。
「駅員さんに言ったほうがいいかなぁ、忘れ物かも」
おばさんが続けた。光博は"不審物"を連想していて、忘れ物という考えはなかった。
「どうでしょう。でも、清掃の人が見つけるんじゃないですか?」
見ず知らずのおばさんに失礼がない程度に、光博は答えた。
「そうね」
その乗車口には光博とおばさんだけが待っていて、微妙な時間が流れた。
「あなたは東京まで行くの」
おばさんが聞いてきた。
「はい」
「へぇー。私もよ、旅行で」
「あ、そうなんですか」
「そう。実はね、私、あと数ヶ月で死ぬんですよ。だから、最後に旅行しようと思って」
答えに困った。「え、あぁー」と気の毒そうな声を出した。
「あ、ごめんなさいね、急に」
「あ、いえ」
そんなことを言われたのは生まれてはじめてだ。それも、見ず知らずのおばさんから。
「胃が悪くてね。もう長くないんだって。この旅行が終わったら、入院になるかも」
「そうなんですか」
ただ、おばさんがあまりにもあっけらかんと話すので、光博の相槌からもしだいに慎重さが払拭されていった。
最後の旅行であることを娘に伝えてあること。
東京を楽しんだ後は、仙台まで足を伸ばす予定であること。
でも、タイムリミットから逆算すると、それが限界であろうということ。
はくたかの発車を待つ間、光博はそんなことをおばさんから聞いた。そして清掃の終わりを告げるアナウンスが流れた。光博はおばさんと並んで乗車口をくぐり、少しためらいもあったが、おばさんの横に座った。
「あら、まだ話に付き合ってくれるの」
おばさんがそういった。気は進まなかったが、別の席に座るのも違う気がした。
不審物とも忘れ物とも知れない紙袋は、なぜか清掃員に回収されることなく、そのままだった。一方、光博の持つ紙袋からは、相変わらず安い箒の柄が飛び出ている。
光博が仕事のために上京することを話すと、次第に話はおばさんの現役時代の自慢話に移っていった。
「毎日誰よりも早く会社にいってね、まずはトイレを掃除するの
「女性用も、そして男性用も
「みんなが出社してくる頃には、ピカピカになってる
「それを見て、気の利く社員だと評価してもらえる
「でも、私にとっては当たり前のことだった。誰よりも頑張って、周りの人につくすのが普通だったから」
そして、話は昨今の男女のパワーバランスにも及んだ。
「最近、カップルで買い物をして、男がトイレットペーパーとか、重いビニール袋とか持ってるの、よく見るでしょ
「私だったら、絶対にそんなことはさせないわ
「そういうものは、女が持つもの
「男に食品やトイレットペーパーをもたせるなんて、みっともない
「カップルなら、男にそんなみっともないことさせちゃだめ」
こんな思想もあるんだな。でも、現代では批判される考え方だな。そんなことを考えながら、
「でもそういうのって、男がすすんで持ってることが多いですよ。女の子が持たせてるんじゃなくて」
そんなふうに反論してみると、
「だめよ、女はそれを受けちゃいけないし、男はそもそもそんなこと言っちゃだめ」
おばさんの思想はかたかった。
それから、話はおばさんの自慢話に戻っていって、以降どんな会話をしたか、光博は覚えていない。
はくたかで金沢から東京に至るには、約3時間かかる。その間、ずっと話し続けていたことは確かなので、もっといろんなテーマがあったはずなのだけど。東京駅ではくたかを降りたとき、ようやく光博はおばさんと別れた。正直ホッとした。
東京での住まいにもう入居は済んでいた。家具はまだ少ない。その部屋に、金沢から連れ添ってきた箒の飛び出た紙袋を置いて、すぐに光博は眠りについた。もう窓の外は暗くなっていた。不審物とも忘れ物ともしれない茶色の紙袋の中身は、結局何かわからなかった。
あれから7年がたった。箒はとっくに捨てた。
おばさんの言っていたことが本当なら、もうおばさんはこの世にいないのだろう。だとしても悲しみはない。
それでも、あのおばさんとの時間を忘れることはないのだろうと、光博は今でも思っている。
あとがき
これは実話です。
固有名詞・時制などに創作を織り交ぜていますが、
箒の飛び出た紙袋、中身の不明な紙袋、おばさん、おばさんの話、すべて僕が経験したものを、ありのまま書き起こしたものです。
あのおばさんとの時間を忘れることはないのだろうと、僕は今でも思っています。
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