蜂の巣

真夜中、次第にどの家も灯りを落とすであろう時間に男は書斎にいた。髪は濡れて、息は酒臭く寝間着姿で文机と向き合っていた。男は小説家の類ではなく、寧ろ筆無精ではあったが、男の母親の教育方針のおかげか幼い頃から習字を習わされ字は綺麗な方だった。
酔っ払ったまま部屋に帰り、その勢いでシャワーを浴び、テレビを見ながらソファーで寝る。そんな男に先日恋人ができた。顔立ちが整っていると言えなくもないような男に対して恋人は誰もが口を揃えて美人だというような女だった。
男は酔った勢いに任せて女に思いの丈を書きなぐっていた。これは夢野久作の小説に出てくる手紙かという程の量のある文章を男は書いていた。少しずつ車の音が外から聞こえてくるようになった時間にようやく男は手紙を書き終えて、数時間後に女に渡すであろう手紙に目を通していた。その内容が以下の通り

「君はよく、僕の人生には無関係と思えるようなものを僕にくれる。それは意図してなのか君の趣味を僕と共有しようと試みているのかはわからないが、兎に角僕は今君からもらったすみれの花の砂糖漬けを口にしているんだ。僕は君のように高尚な趣味はなく、本当に平凡なんだ。すみれの花の砂糖漬けなんて君にもらうまで知らなかったしね。僕の日時は朝、家を出て、夜家に着く前に必ず何処かで一杯引っ掛けて帰るだけだ。同席している相手なんて本当にいつも違う、友達が多くも少なくもなくただ本当に単調な日々を君と出会うまでは過ごしていたんだ。最初に断っておくと、僕は今日も酒が入っている。だからこれからもこれまでもこの手紙はきっと支離滅裂なものになっていると思う。僕は今『存在の耐えられない軽さ』見ているのだけど、とまぁこんな具合に話題が突然変わることもあると思う。『存在の耐えられない軽さ』を見ているのは僕が映画好きな訳でもDVDを沢山持っているわけでも、まして普段からよく映画を見るたちでもない。テレビをつけたら、たまたまやっていた本当にただそれだけのことなんだ。そんなことを君に伝えたいわけではなくて一応この手紙を書いたのにも意味合いはある。多少なりとも考えての行動なんだ。僕は普段から君に言えていないことが多い。でも、きっと君はそれに気が付いていながら見過ごしてくれているね。勘のいい君に一つひとつ書いて説明するのもどうかと思ったんだけど、どうしても書きたくてね。

君は小説が元になっている映画の原作を読むのが好きだね。君の本棚を見れば鈍い僕でもわかるよ。僕も嫌いなわけじゃない。でも、僕は君の話す言葉の一つひとつが詩になり小説に出てくる琴線に触れる会話文になりうると思っている。君こそ文学だ。 不機嫌そうな沈黙や溜め息も気の利いた句点になり、計算され尽くした句切れのような気さえする。それらが僕の魂を満たして、幸福にする。或いは君の言葉は旋律だ。単調なようで壮大な旋律は僕の耳に届く頃には音楽になり心を掴んで話さない楽曲になる。天使の羽に撫でられているような気さえする。時に君の涙を見ることになるかもしれないけど、きっと、まだその涙を見たことは無いけど、きっとその涙は砂漠に降り注いだ水の一滴よりずっとずっと儚くて綺麗だと思う。だからきっと泣いている君も好きだと思う。だからどうかこれからもずっと寒い冬の日に小さく咲いている黄色い花のように美しい君でいてくれないか。冷たくて美しいままの、精霊のような君で。

寝ている君はどんな夢を見ているだろう。幸福な夢だろうか、不幸な夢だろうか。起きた時に、君のその透き通るように白いその肌に這っている汗は冷や汗だろうか、ただの寝汗だろうか。僕はそれを綺麗に拭き上げたいと思わない。なるべく長く観察して、目に焼き付けて僕の魂を満たしていく過程を楽しみたいと思う。だから、こそ僕はこんな真夜中に君に電話をかけたりしないで僕はずっとここから君を見ていたい。窓を一枚挟んで、カーテンの隙間から見える君を。だから、どうか僕を試したりしないで欲しい。僕のことを意識しすぎる余り避けたりしないで欲しい。きっと朝になれば僕は君と同じバスに乗ると思う。隣にはいつも男を座らせているけど、少し前までは僕だったじゃないか。ぼくをやかせて試したりはしないで欲しい。会社の同僚かなにからしいけど、素直に僕を隣に置いて欲しい。それが僕のささやかな願いであり、これまで口に出せなかった君への隠し事だ。君の部屋から拝借したすみれの花の砂糖漬けがもうすぐ無くなりそうだよ。また買うから、同じものを取り込んで少しずつ近づいて、いつかお互いの体液をなるべく近い色にしていきたいんだ。

僕は君の全てになりたい、君は僕の全てだから。同じものを持ちたい、同じ財布に同じ鍵、同じ感情を。財布は一つにしていいかい?どこまで近付いても僕と君は生物学的には違う性別で、身に付けて似合う色も違う。ならいっそ一つにまとめてしまいたい。それは生まれ持った時から君に宛がわれた苗字と僕の苗字が違うように仕方の無いことなんだ。同じものを二つ持つことはできないから一つにまとめてしまいたいんだ。いいでしょう?

それじゃあ、また明日。下の名前も知らない君」

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