流れる景色は美しい

 手を離すともう二度と会えない気がした。足元の泥濘は僕を酷く憔悴させ、玲奈に少し休まないか、と今にも言い出しそうだった。
「もう少し、多分もう少し歩けば大きな通りに出るの。そしたらそこでバスに乗って、私達は帰るの」
僕はどこに帰るのか分からなかったが、ただ彼女に従って歩き続けた。
 泥濘は実在していない。システムのことだ。僕は比較的まだ若く、システムを理解しているようで理解しきれていなかった。今もう一度あの時間をやり直せたらよりベターな生き方をできていたかもしれないが、あの頃があって今の教訓が生まれている。必要な失敗だったのかは今でも分からないが、今でも時々彼女のことを思い返してしまう。

 ほんの数年前のことなのだけど、僕は当時根津のシェアハウス住んでいて、ふらふらとフリーターをしていた。厳密には大学生という身分だったのだけれど、大学に行くことはなく適当にアルバイトをしては一応の生活費を稼ぎ、食うには困らない程度の生活をしていた。
 アルバイト先は僕を受け入れ、僕もまた彼らに心を許していた。渡辺さんという僕より三つ年上の店長は大学を中退して、アルバイト先だったその店に就職した。
「今のお前は若い元気な時間を小銭に変えて、すり減らしているだけだ。後悔する前に大学に戻ることを考えろ」
彼はいつもそう言ったが、業務的には僕のことを頼りにしてくれていた。
他にも何人かスタッフがいた。それだけでは食べていけないお笑い芸人、上手く大学に馴染めず友達作りのために働く女子大生。他にも何人かいたが、彼らは適当な時期に辞めて、また似たような人たちが入ってきた。

 ある日、渡辺さんが僕の恋愛について聞いてきた。僕は高校時代に付き合っていた子のことを話した。彼女は隣のクラスの子で合同授業の時に話すようになり、次第に僕の分の弁当を作ってくれるようになった。僕は彼女と寝るのは好きだったし、なにより彼女の茶色い瞳がとても好きだった。
進学の頃になって、僕が彼女に大阪を離れて東京に出ることを伝えて、彼女はどうして一緒にいてくれないのかと責め、僕はただ謝り続け別れた。卒業以来会っていない。
渡辺さんは僕の話を黙って聞いて、彼も自分の話をした。渡辺さんの彼女は目白にある女子大で英文学を専攻している人だった。所謂お嬢様だったが、それを鼻にかけることもなく誰にも優しく、また誰にも同じような笑顔を向ける人だった。
 彼女は何度か店が閉まる頃にやってきては僕も入れて三人で朝まで飲んでいた。
「ねぇみつばくん。女子大には出会いを求めている奴が大勢いるの。今度会ってくれないかな」
僕はあまり乗り気ではなかったけど、渡辺さんもその気になって四人で会うことになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?