青春のビール、大人のウイスキー


 観葉植物で埋め尽くされたそのバーはいつもタバコの匂いがした。店員の忍さんは常にチェゲバラのブラックを吸っていたし、そこに居る客の多くもまた何らかしらのタバコで灰皿を埋めていた。
「今日は和牛のたたきがあるよ」
そういって忍さんは僕の前にハイボールと灰皿を出した。
「じゃあ、それお願いします」
ジャパニーズウイスキーなんてのは嘘っぱちさ、死んだ元嫁がよく飲んでたから思い出して上手く作れないなどといつも適当なことを言って、忍さんは埃被った山崎や知多には脇目も振らず、ミクターズのウイスキーを手にとってハイボールを作る。
ここに来始めた時に僕は特別拘りが無かった、というよりそれまで基本的にビールばかり飲んでいたので、ウイスキーは忍さんに教えてもらったと言っていいだろう。そうだ、僕はずっとビールを飲んでいた。

「ビールが合わない食事ってこれが無いのよ」
いつも笑顔でそう話していたのは恵美だった。
恵美は知り合った時は湯島のガールズバーの店員で、その後程なくして上野のストリップ劇場で働き始めていて、何故か僕にはそのことを黙っていたけれど、僕は上野のキャッチからそのことを聞いていた。
知り合ってすぐから僕らはプラトニックに食事や映画に出かけていた。デートと呼んでいいものだっただろう。そして僕はその頃恵美のことが好きだった。
「フレンチにもビール、イタリアンは余計にビール、中華なんてまさにビールだし、和食も基本ビールね」
そう言いながら恵美と上野にある由という寿司屋で互いにビールを飲んでいた。恵美はいつもビールを飲む瞬間以外、悲しそうな顔をしていた。
「仕事は順調?」
「まぁ、ぼちぼちね、給湯室のおばさんって感じで大したことしないのよ」
嘘を嘘だと見抜きながら僕は相槌を打った。
「恵美ならきっとそうは言いながらもうまくやっているんだろうね」
僕の青春は嘘に塗れたビールだった。

 和牛のたたきはハイボールにとても合うけれど、少しビールが恋しくなった。
「にしても、太一くんはこのごろ帰りが遅いね」
「決算前だからね」
僕は手元のグラスを空にしてハイボールをもう一つ頼んだ。
「ねぇ、太一さんって仕事なにしてるの?」
話しかけてきたのは何度か話したことのある美優という歳下の常連客の一人だった。
「どこにでもいる営業だよ」
「ふーん、明日も仕事?」
僕は忍さんが気を遣って離れたのが分かった。
「仕事だけど、案件で出るだけだから遅出だね。美優ちゃんは休み?」
美優はにっこり笑って頷いた。

 長い雨が続いて、いきなりからっと晴れた六月のある日だった。大学友人の吉野から電話があった。
「こんなによく晴れてると大学に行ける気がしないな。かといって俺は偏頭痛持ちだから雨降りも家から出れないけどな」
僕は大学を二年生の途中でやめた。理由は特になかったが、強いて言えば思ったよりも大学が退屈だったからだろう。
「太一くらいだよ、いつ誘っても来てくれるのは。みんな学校がどうとか彼女がどうとかでさ」
「全くだ」
僕たちは代々木にあるシーシャバーで待ち合わせた。電話ではお互いに集合場所を言わなくてもそこだと分かっていた。
吉野とはそこで知り合った。同じ大学というのは後から分かった。彼は一浪していて歳は僕より二つ上だったが、何故か弟みたいに馴れっこい奴で僕がサリンジャーを読んでいるとバドワイザー二つを持って、乾杯だよと渡してきた。
「俺は本は読まないけど、本を読む奴は好きだ。だから乾杯」
今日も吉野が遅れてやってきた。誘うのはいつも吉野だが、必ず遅れてやってきてお詫びに一杯目をご馳走してくれる。
「バドワイザー二つ」

 美優は自分に関する重要なことは何も話さない女性だった。こちらが聞いても何も答えないというわけでも、話し続けているというわけでもないのだが、何故か彼女の仕事や何やに関して興味は持つけど知らないままでいいと思えるくらい素敵な女性だった。
「太一さんはずっと同じものを飲むの?」
僕は頷いた。
ふーんと彼女が言った時に何故か吉野の話がしたくなった。
「ねぇ、美優ちゃんは最初に飲んだお酒とかシチュエーションって覚えてる?」
「わからないわ、もう随分前のことだから。多分大学一年生の新歓かなにかじゃなかったかな」
「大学生の頃に吉野っていう友達がいたんだけど、僕は彼に勧められて飲んだんだよ。それまでは全く興味がなくて、煙草は高校生くらいから吸ってたけど飲み会とかでも烏龍茶だったんだ。けど、その吉野って奴と知り合った時にいきなりビールご馳走されて、せっかくご馳走されたしって断れなくて飲んだんだよ」
「きっかけってそんなものよね」
その後暫く吉野の話をした。彼女は時折笑って、時折真剣そうに言葉を繰り返したり質問をしたりした。
僕は吉野の声が聞きたくなって数年ぶりに電話をした。

「もしもし、久しぶり」
「おお、コンビ復活の知らせかな。懐かしい名前だもんで思わず席抜けて出ちゃったよ」
懐かしい声だった。吉野は今同僚達と御茶ノ水で飲んでいるようだったが、こちらから何も言わずとも
「じゃあ、一時間後に」
と言って切られた。
僕は美優に吉野と会うから出ることを伝えると
「私も会ってみたいわ、その人」
と言って、一緒に代々木まで向かった。

 結局吉野が僕達の元に現れたのは1時間と45分経ってからだった。
「思ったより抜けるまでに時間が掛かってな。それにしてもここも変わらないな。えーと、バドワイザー三つ。で、その人は太一の奥さんか何かか?」
「いきなりごめんなさい。さっきまで太一さんとご一緒してて、ずっと吉野さんの話をするものだからなんだか私も会いたくなっちゃって。久しぶりの親友の再会に添える花にしては不恰好かしら?」
「全然そんなことないね。俺と太一はコンビじゃなくてチームだからそれは当時の彼女も交えて遊んだりしてたよ。こんな話しないほうがいいかな」

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