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「児童虐待問題」に温かさを。

こんばんは、mitsuamiのyokoです。心を無にして資格勉強しようとしても、なかなかはかどらない。勉強も運動と同じで、日々やらないと集中力も記憶力も鈍る一方なのだと実感しています。

そんな中ニュースで目にした蒲田の児童虐待死事件について、思うところを書いてみます。(勉強せえという心のつっこみはさておき・・・)

「虐待」がニュースになるたび感じる苛立ち

私はこのような事件が起こるたび、とても腹が立つのです。虐待した親に?いえ、「ひどい母親だ」とひたすら親を責める風潮に、です。確かにその罪は重い。しかし、そうやって加害者を責めまくることで、何が良くなっていくんだろう??以下、ライトに毒を吐きます。

「産む資格ない」→産む資格ってどうやって決めますか?

「かわいい盛りなのに信じられない」→そうですか、信じられないですか。

「施設に預ければよい」「養子に出せばよい」→一つの解決法ではあるけれど、そんな簡単な話ではない。

こういった批判・感想を述べる人、自分に酔ってるだけじゃないですか?「正しいことを言っている自分」「ちゃんと(少なくともこの親よりは)育児できている自分」「幼い命を慈しむ自分」。

もう一度言います、それで何が良くなっていきますか??

虐待の背景をイメージする重要性

私はいつも「なぜこの事件が起こったのか?」を、ニュース内の情報から考えてしまいます。仕事柄、いろんな意味で危ういバランスのご家庭を見ることもあって、様々なイメージが沸きます。今回の蒲田の事件であれば、母親の孤独と想像力のなさ。そして、それはどうしたら防げたかを考えるには、その母親の子ども時代まで遡ることも必要になります。虐待問題は虐待する親を責めるのではなく、その親に寄り添うことで解決の糸口を見いだせると思っています。この事件単体としてではなく、氷山の一角として捉え、自分のできることを考えていきたい。

「親に寄り添う」

私の長男は3歳から療育センターに通っていました。私のキャパの問題もありますが、当時なかなかハードな子育てでした。長男が4歳になるかならないかの頃、私は癇癪を起こす息子に手をあげてしまいました。白状しますが、一度や二度ではありません。躾のため、なんて思ってません。理性のリミッターが外れるのです。もちろんその後は後悔の嵐。どうしたら良いか、すがる思いで療育センターの先生に泣きながら相談しました。「私のやっていることは虐待だと思います。でも、どうしたら良いかわからない。一生懸命になればなるほどつらい。」先生は部屋と時間を取って話を聞いてくれました。そして穏やかに、こう言いました。

「たしかに、今お母さんが仰った内容は、虐待の定義に当てはまります。」

私はその言葉を聞いて、なぜだかとてもホッとしたのです。今思えば、「受け止めてもらえた」という安堵感かもしれません。もしあそこで「そんなことないですよ~」とうわべのフォローをされていたら、余計辛かったはず。そして、そう言いつつも「その後どうですか」なんて腫物触るみたいに電話でさりげなく様子チェックでもされようものなら、本当に追い詰められていたと思います。「私、ダメ親なんだな。私には育児はできないんだな。」と。

先生は、最初の言葉の後、具体的な対応策を一緒に考えてくれました。むしろ「確認作業」のように。「お母さんは、ちゃんと息子さんのことわかってますよ。大丈夫ですよ。」というメッセージを私に送ってくれているのが伝わってきて、とても温かかった。これは私の育児の大きなターニングポイントとなりました。

悲しい事件が起こるたびに思います。この親には、そういう「温かさ」を感じられることがなかったのかもしれないと。

児童虐待防止対策

厚労省が昨年、児童虐待の新しいガイドラインを発表していたことを思い出し、調べてみました。

一般向けのリーフレット・・・ああ、こういうやつね、「やってますアピール」。ド正論の『子育ての工夫のポイント』がいくつか載っています。一個突っ込むごとに記事一回分書けそう(笑)

えっと、、、まず事件起こす親は「こんなん読まない」or「すでに読みまくってその通りに行かなくて追い込まれてる」のいずれかと思われます。誰に向けての情報なんだろう。少なくとも数年前の私には何の役にも立たなかったであろうことは確か。

「社会で子育て」

同じく昨日、渋谷で子どもに暴力を振るう母親の動画がFacebookに投稿され反響を呼んだというニュースを目にしました。その母親、のちに特定され、児童相談所が対応しているとか。

・・・いや、本当にやめてあげて。

遠くから動画撮って晒す、それが拡散される、見ず知らずの大勢から非難される。この母親、今後大丈夫だろうか。もしかしたら、いろんな事が重なり合ってたまたま限界に達してしまったのかもしれない。というかそうでしょう、渋谷の駅構内でブチ切れるなんて相当追い詰められていたはず。何かできることはと言えば、「どうしたんですか?」とまずは声をかけてみる事ではないでしょうか。動画投稿者は「社会に考えてもらうきっかけになれば」なんてコメントしていましたが、私はただただ胸が痛かったです。ニュース記事も通報の方法を周知するべき、といった結論で終わっていました。そこに温かさは、ない。

この流れ、最近ウワサの「自粛警察」と似ています。「正義」の名のもとに、個々の事情を推し量ることなくただただ糾弾する。タチが悪いのは、悪気がないどころか「良いこと」をしていると思っている。そしてその「社会の目」を恐れ、余計に追い詰められる親たち・・・

これでは「社会で子育て」ではなく「社会で監視」ではないでしょうか。

たしかに子どもを守ることは重要です。しかし、本当の意味で子どもを守るためには、その親も社会で支えていってほしい。それはガチガチの正論で固めたアドバイスでもなく、減点法の監視でもない。子どもの親である前に、一人の人間として尊重し、支えあっていくべきだと思うのです。

悲劇を少しでも減らすために、まずは身近な他者に温かい目で関わってみませんか?

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