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【ミトシャのアートハント】 vol.2 香月泰男展

 わたしはモノクロームの世界に、鮮烈な、清しいとも言えるような色彩を見る。それは、画家の言葉によって引き出された情景だけれど、それほど、彼の見た景色は美しかったのだろうと思う。それに引き換え、その時、彼が直面しているあまりに苛烈な、地獄のような境遇。人間の残酷さが凝縮され、惨たらしく続く。
 今、世界はその愚かさを繰り返している。
 わたしは、この時期にこの展覧会を観ることができてよかった。戦争は、終わればそれで解決するような、そんな簡単なものではないこと。苦しみは、その人の生涯に渡ること。
 立ち止まり考えれば、容易に引き出せるのに、想像力は簡単にそこへ及ばない。
 わたしは、どこまで近づけただろうか。ううん、絵画の1枚1枚が、確かにわたしをその光景まで導いてくれたんだ。

香月泰男展

生誕110年 香月泰男展
会期:2022年2月6日(日)~3月27日(日)
会場:練馬区立美術館

練馬区美術館より

 三兎舎のミトシャです! 今回は練馬区美術館で開催中の『香月泰男展』に行ってきました。冒頭に書いたように、この展覧会は、その絵画を通して現在の世界情勢が私事として迫ってくるものでした。わたしが感じたことを素直に書き留めていきたいと思います。前回同様、テーマごとに章立てて綴ってゆきますね。

第1章 1931-49 逆光のなかのファンタジー

 わたしが最初に感じたのは、この人、絵がうまい! というものでした。至極当たり前の感想なのだけれど、今回の展覧会は、制作年ごとに順番に展示されているということで、そのことに納得したのでした。画家独自のスタイルを獲得するまでは、先達の画家に影響を受けていたり、基本に忠実であること、それが観るものに素直な感想を抱かせるのだと思います。わたしは、その画家の青の時代の作品を観ることが大好きです。
 基礎がしっかりしていないことには、画家として大成しないのではないか、と考えたりします。そして何より描くことが好きなこと。

「ものごころついたころから、紙さえあると描きまくった」

香月康夫展図録 p.25、朝日新聞山口版の取材記事より

 そんな夢中が、後年、苛烈な人生を下支えするひとつの要素になったのではないか、とわたしは考えます。

 『兎』と題された作品がかわいかった! 三羽のうさぎ、わたしとおそろい!
 『釣り床』や『水鏡』にある青色が透明に美しかったこと。しばらくは流れていたけれど、やがてその色が枯れてしまうこと。それでも長い期間を経て、再び湧き出すこと。
 この章の終わりには、すでにシベリア・シリーズの作品群が顔を出しはじめます。つまり兵役の召集、戦争、シベリア抑留、復員がこの期間に起こったということです。それらの出来事は、やがて画風をモノクロームへと導きます。しかしそれは、ゆっくりと進みました。物事の多くは、こと小説や芸術作品においては、時間が経たないと表面に現れないものです。
 続けて次の章へ進みましょう。

第2章 1950-58 新たな造形をもとめて

 この時代にはキュビスムの影響が顕著にみられます。明るい色彩が続き、モチーフも日常のものが次々に現れます。『ハムとトマト』にある明るい幸福、犬や鳩、山羊など、動物もたくさん登場します。しかし、その後、画面から多様な色彩は影を潜めるようになります。何が契機となったかは定かではありませんが、ヨーロッパ旅行での体験がそれを後押ししたようです。

なかでも、ヴァチカンとフィレンツェで見たレオナルド・ダ・ヴィンチのほとんどモノクロームの作品は、渡欧前に試みていた表現に自信を与えてくれるものだった。

香月康夫展図録 p.56より

 動物モチーフである、『鷹』もモノクロームで描かれます。そのフォルムがとってもかっこいい。ただ、この作品もシベリア・シリーズに組み込まれているので、抑留時代の記憶の作品であることは間違い無いです。画面の半分以上を木炭の黒が埋めています。窮屈な鷹は未だ羽を広げず、こちらを見ています。脚はどっしりと地べたを掴んでいます。

 印象に残っている香月の言葉があります。

石というもんは死んだような生きたような、
非情なもんですわねえ。
それが黒にもあるんです。
僕の絵は”石”が基調になっているんですがね、
石のハダが描けたら油絵のハダがかける、
あれほどの固さと重さが描けたら、
と思ってるんですよ。

「石というものは曲者」『東京新聞』(夕刊)1958年4月29日より

 果たして、そういったものは描けたのでしょうか。わたしは到達していると感じました。次の章から本格化するシベリア・シリーズがそれを語っています。

第3章 1959-68 シベリア・シリーズの画家

 シベリア・シリーズに描かれる無数の顔、顔、顔。そしてたくさんの手、祈り手、鉄格子を掴む手。黒い太陽。
 そのような連続の中で、わたしは、1枚の絵に引き込まれます。
『星 <有刺鉄線> 夏』
 空にまばゆく星が散りばめられている。秩序がないようで、しかし、手の届かない絶対の美しさ。下方に目をやれば、規則正しく配列された有刺鉄線。自由を奪う、人間の残酷さも光を宿している。
 この絵を見た時にわたしは、空の秩序は、星の秩序は、計り知れなく美しいものだなあと感じました。もちろん、規則正しい美しさもわたしは好きです。でもそれは、人を苦しめるものであってはいけません。自然災害は起こるでしょう。でも、それならばなおさら、人は人を苦しめるべきではないと思うのです。

 重苦しい絵画が続きます。シベリア抑留の過酷さが、否が応でも伝わってきます。そんな中に、ふと『凧』といった作品や『父と子』のような作品も顔を出します。ユーモラスな構図。色彩も少しずつ現れてきます。
 ひとつの作品で、この人はこのような人だとは、決して断言できないのです。それは何についても言えること。もちろん考察することを止めません。わたしだって今、しています。でも、そこで想像をやめてしまっては、自分の幅が狭いまま縮こまってしまうのでは、と思います。
 香月のような想像を、わたしたちは、どんな環境であってもできたらいいな、と思うのです。『伐』という作品にこう寄せています。

大木が雪煙りを上げて倒れると、見事な同心円を持った切り株があらわれる。あたり一面の白雪の中で、それは能舞台のようなすがすがしさがあり、一瞬疲労を忘れて見入らされる程であった。

『伐』自筆解説文

 仲間が次々に死んでゆく中での、真冬のロシア、シベリアでの重労働。想像を絶する過酷さの中で、舞台をそこに見る感性を失っていなかったこと。わたしもそうでありたいと願います。シベリヤの美しい景色がわたしの瞼の裏に映ります。
 強制されて働くことのないように。そもそも、戦争がないように。わたしは祈ります。

第4章 1969-74 新たな展開の予感

『点呼(左)/点呼(右)』、この作品のドラマをぜひ、実際の作品で体感して欲しいとわたしは思いました。不安と渇望、緊張と恐怖、解放の喜び、そこから歩きはじめると、どこか取り残されたような、漠然とした自分。

 シベリア・シリーズを追いかけて、ここに辿り着いた時の感慨は、なんとも言えない喜びではあるけれど、体感しなくてもよかったはずのものにも感じてしまいます。
 ここで、また今の現実に視点がフォーカスされます。戦争は、戦闘が終わればそれで全て解決するようなものではありません。復興にどれだけ時間がかかるでしょうか。戦争を仕掛けることが、愚かなことであると、多くの人が気づいたことは、最悪の事態の中での希望です。とはいえ、とても多くの人命が奪われているのです。あなたを楽しませる、喜ばせる誰かがいたことは間違いないのです。世界は、人間の繋がりは、思っているよりずっとずっと狭いのですから。

 香月は、心筋梗塞によって、突然命を断たれます。もし命が長らえていたのなら、色彩の戻ってきていたキャンバスに、それでもシベリア・シリーズは続いたでしょう。戦争がシベリア・シリーズを描かせた、という人は勿論いるでしょう。実際にそれは正しいのです。それでも、とわたしは思います。戦争がなく抑留がない、この画家の作品もたくさん観てみたかった。
 とっても愛らしい絵がたくさんあります。研究された、素晴らしい想像の絵画を、あったかもしれないキャンバスに、わたしは今も見ようとしています。

【ミトシャのアートハント】 vol.2 香月泰男展 <了>

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