頼朝以前はどんな人が征夷大将軍になれた?

源頼朝が征夷大将軍になった後は、幕府の長、つまり軍事”政権”の長が征夷大将軍になった。
が、それまでは、征夷使の長、征夷つまり蝦夷=東北を征服するための軍事的な地位だった。鎮守府という蝦夷防御のための施設の長、鎮守将軍と同格の”栄誉職”だった。

”栄誉職”ということは、実際に現地に行って戦う人は少なかったかもしれない。どちらかというと、そのちょっと下のほうに、元々縁ががあるひとがいるかもしれない。
が、順繰りに将軍職から調べていこうと思う。

ここで、ちょっと面倒なのでウィキペディアさんに歴代征夷大将軍で調べてもらいました。(本来であれば、少なくとも『国史大系』とかに入っている『公卿補任』くらいは当たりたいところですが、とりあえず)

①巨勢麻呂(鎮東将軍)
②多治比県守(持節征夷将軍)
③藤原宇合(持節大将軍)
④藤原麻呂(持節大使)
⑤藤原継縄(征夷大使)
⑥藤原小黒麻呂(持節征東大使)
⑦大伴家持(持節征東将軍)
⑧紀古佐美(征東大将軍)
⑨大伴弟麻呂(征東大使、征夷大将軍)
⑩坂上田村麻呂
⑪文屋綿麻呂(征夷将軍)
⑫藤原忠文(征東大将軍)

藤原忠文のあとが、木曽義仲、頼朝、、、と続いていくとあります。
ただ官職要解では、多治比県守がはじめとあるので、どこから征夷使として扱うかは所説あるのかもしれません。

藤原忠文は、平将門征伐の人なので蝦夷征伐の長としてはちょっと外していいかもしれません。

とはいえ、栄誉職というだけあって高校レベルの教科書でも半分くらいは聞いたことがある名前がずらっと並んでいます。

藤原宇合、藤原麻呂なんて藤原四家の式家、京家の祖だし、大伴家持は『万葉集』編纂の歌人として名前がある。さらにいえば、令和の改元のときに、その由来となった”宴”を催した人物名前が挙がった、大伴旅人の息子さん。

大伴氏、文化面ばかり教科書で取り上げられるけど実は武門の一族。

藤原四氏、大伴氏あたりがやはり直接縁があるとは思えないから、やはり少し下の役職の人のほうをあたったほうが、東北との縁を理解できそう。

大将軍レベルになると、その当時の政権内での武門一族の中でのパワーバランスを理解するために見たほうがよさそうです。

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