蝦夷征討といえば征夷大将軍

どこまで一般的な知識かは、わからないのですが、蝦夷征伐といえば、
征夷大将軍なんですよね。
でも、征夷大将軍で思い浮かぶのって、徳川家康とか足利尊氏とか源頼朝ですよね。
なので、どうしても最初の征夷大将軍って幕府を最初に作った源頼朝のような気がしませんか??高校の教科書でもさらっと読むと、サラッとそう思えてしまう。

が、しかし。

征夷大将軍=幕府のトップ→源頼朝が最初??ではないんですよね。
『鎌倉殿の13人』でも頼朝が、
征夷大将軍を任命されて政子と喜んでいる印象的なシーン
(その後の政子の『従三位(ハート)』(結局この人弐位まで登りつめるんだよな)も含めて位階・官位の授与が印象的だった)
がありましたよね?あの大泉洋と小池栄子の演技が本当に私は大好きだったので、私はよくよく覚えています。

喜ぶ→もともとあった役職です。

征夷大将軍 もとは征夷使といって、大将軍、副将軍、軍監、軍曹などの役があった。元正天皇の養老元年(717)、多治比真人県守を時節征夷将軍となされたのがはじめである。

新訂 官職要解(講談社学術文庫)

征夷とは東北の蝦夷を征討する意味でつけたもので、有名な坂上田村麻呂、文屋綿麻呂も征夷将軍となったのである

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ここまでくると、坂上田村麻呂を思い出してきますよね。

桓武天皇はいくどか大軍を派遣し、やがて征夷大将軍坂上田村麻呂が反乱の鎮定に成功し、802年(延暦21)には北上川中流域に胆沢城をきずき、

詳説日本史改訂版 山川出版社


教科書にも太字でないですが、ちゃんと田村麻呂は征夷大将軍と書いてあります。
へぇ~と思いますよね。
そんな坂上田村麻呂が気になった方におススメしたいのがこちらの漫画。

坂上田村麻呂は決してメインどころではないのですが、めちゃくちゃかっこいい坂上田村麻呂が出てきます。気になったら、ぜひご一読を。
メインは最澄・空海なので、え?仏教?
小難しそう・・・・と思われるかもしれませんが、実際小難しいです。
が、圧倒的画力で、小難しさはどうでもよくなり、引き込まれて奈良~平安初期にいる感覚になります。わからないところはすっ飛ばして、奈良平安の世界観にどっぷり浸かれる漫画です。

話はそれましたが、
官職要解にも武家時代の項目にあり、文屋綿麻呂から木曾義仲まで絶えていた、とあるので
大宝律令後に蝦夷征伐を目的として作られた、いわゆる令外官、ではあります。

それをどうして引っ張り出してきたか、というのは『13人の鎌倉殿』を見た方はは何となくわかるかと思いますが、武家による独立政権の樹立のために’将軍”の名を欲したためらしいです。

ただ、兵馬の権をとって征討に従事したもので、昔の征夷将軍とは少々意味が違っている。源頼朝が平家を滅ぼし、天下を平定してこの職に補されてからは、兵馬の権ばかりでなく、政権をも掌握するようになった。幕府を鎌倉において、すべての政務をとったから、朝廷の外に一つの政府ができたようなものである。

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将軍の名前があれば、政権を掌握できる、とするのは中国由来の発想なのかちょっと確信が持てない。

東国独立を目指した平将門の自称は『新皇』なので、日本におけるトップの称号としては”皇”っていうのがおそらく、古代の知識人の常識だと思う。

ただ、頼朝は天皇に反するつもりはない、というは明白にしなければいけない。天皇から補される形で、政権を掌握する方法が”将軍”の地位であった。

ここで年表を出すと
1181年 平清盛薨去
1185年 壇ノ浦の戦いで平家滅亡
1189年 奥州藤原氏滅亡
1192年 後白河法皇崩御
1192年 征夷大将軍

奥州藤原氏を滅亡に追い込むための称号ならわかりやすいのですが、滅亡してしまってからの称号。征夷をするための将軍ではなくては、征夷した将軍、になってしまっている。

なので、頼朝から、征夷大将軍の意味するところがガラッと変わってしまった。
これは、頼朝やその周辺の大江広元らのオリジナルなのか、はたまた朝廷サイドの知識人たちの発想なのか、宋くらいまでの中国の事例を参考にしているのかは、私にはわからない。
頼朝あたりの専門書読んだら、わかる?ウィキペディアでも確信的な言説がないから研究途中?

とはいえ、今私が調べたいと思っていることからはだいぶ、離れてしまっている。私が調べたいのは、木曽義仲もしくは源頼朝以前の征夷大将軍、征夷使のほうなので、征夷大将軍についてはこの辺で。

本来は、東国にいる異民族を征服するための栄誉職が征夷大将軍であったが、頼朝が意味合いをかえてしまい、武家のトップ=征夷大将軍にした。
ということをまとめておしまいにします。



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