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はならぁと2019宇陀松山 アムリタ『ひかりのわかれる』

はならぁと2019宇陀松山エリアでは知人が3人参加している。
また、両親の故郷奈良吉野に近いので勝手に懐かしさがあった。
さらに知人の参加アーティストの内の1人、林ちゑの最近の変化(遠い眼差しと透明感と声の立ち方)に、彼女はどんな芝居をするのか興味を持った。
築120年?当時はそれは賑わったであろう木造芝居小屋。
時代と共に芝居から活劇になり、映画館となって今は使われなくなった(死んだ)古い劇場、喜楽座が会場。
林ちゑが出演するのは、アムリタ『ひかりのわかれる』。
その前に関川航平とメンバーによるパフォーマンス『心゛臓゛゛』、生活雑器等を床や机に打ち付けたり擦ったりして表出する音(ささやかな環境ノイズな感じ)や、無音、間(ま)でのバンド?演奏と所作が続けられていた。
『心゛゛臓゛』の演奏は終了してアムリタの時間になるのだけれど、演奏者は舞台に残り僅かな生活雑器と同化するほどに微かな非日常な所作を続けている。終演を知らせる?小屋二階桟敷の雨戸が開けられて陽の光が入り込み、小屋にほんのりと日常がやってくる。
『心゛゛臓゛』の微かな演奏と所作はさらに小さく静かに続いている。
雨戸がまた閉められる。芝居用の設営と芝居の始まりが輪郭線をひかれることなく始まる。
林ちゑは、
・死んだ喜楽座の精(5、6才?の子供)のひとり、
・喜楽座で芝居をしにきた役者のうちのひとり、
・劇中配役のひとり、
そして喜楽座で芝居をしにきた役者のうちのひとりとはまた違う少し遠いひとりとなって芝居の導入部、この小屋で芝居を準備しようとする役の人に、芝居を観たことのない人の代表となって「演劇って何?」と聞く台詞に、「これからここに現れる時間、 のこと、 を、 わたしたちは演劇とよびます」と、こたえる台詞。これは死んだ空間がよみがえる時間のことでもあり、芝居・演劇が終わればまた空間は死んでいくことの決まりをも含んでいる台詞。使い古されたイメージなのに使い古された感をかんじさせずに進んでいく。
死んでいた空間をゆっくり復活させる。急いでは壊れてしまう。抑制された「演じる(奏でる・声、音を)」をみせてくれた。
また、アムリタ『ひかりのわかれる』の荻原永璃(演出・テキスト)では、役者が発語する音を環境音のように扱ってこの芝居小屋全体を私たちに感じさせる作りをしていた。
舞台空間から木戸口に出ていきながらだったり、二階桟敷に上がりる曲がりながら昇る階段、上がりきった二階、後から作られた映写室の中から。
通常舞台の前方向から聞こえる音声が、全く別の方向に向かって発語され、向こうに行く音(声)、遮蔽物にさえぎられた音(声)、二階からの、目の前からの音(声)を、豊かに、しかし押し付けられることなく堪能することができた。
少し前(2018年の常磐津兼太夫ライブ あたり?) から耳に届く音(声)の不思議に意識が向かっていたので、『心゛゛臓゛』から、アムリタ『ひかりのわかれる』への導入は、今の私にとても響いてくる作品だった。

また、荻原永璃の音(声)の使い方の他に「あ、、」と思った取り組み(試み)があった。
喜楽座の精、二人の子供でイメージされた役。
使い古されたイメージ=記号化 で作れば、
子供が発語する=少し甲高い声、元気、「だよ」「だ」「!」あたりを使って演じると「これは子供である」というお約束(記号)。
この記号化された「子供を演じる」が延々使われている。
萩原作品では言葉も音声もそのままに聞こえる程の違いだけで役者に演じさせていた。
(わりと短期間に大人が子供を演じる箇所のある芝居をみて、耳が辛くなったり、これは記号化を見せられていると思った作品があり、子供を演じる。ということにここ最近ずっと気持ちが傾いていたので。ちなみに辛くなった作品は、ノックノックス「人魚姫」、DULL-COLORED POP第20回本公演「福島三 部作・一挙上演」、立川創造舎Theatre Ort「銀河鉄道の夜」 )

萩原作品の試みは成功してはいなかった(二人は芝居小屋の精だと判明するのは二人が交わす台詞、結構なやり取りの途中で判明。その後も頭の中で「これは子供として見る」と意識して変換が必要だった)が、実に観てみたいと欲していた試みで、なるほど記号を使わずにやるというのは並々ならぬ創造(発明)が必要なのだと深く納得。

最後に敬愛する分析ヲタ(芸術人類学)のツイートを。
中島 智
@nakashima001
>繰り返し述べているが、「見せよう」とした絵は、「見たい」鑑賞者たちには「見させられる」屈辱をもたらすだけでなく、一瞥しただけで「見えたつもり」にもさせてしまう。そんな恣意的な、鑑賞者の自己投影でしかない「つもり」に滞留させないのが、「見たい」がために描かれた絵。
https://twitter.com/nakashima001/status/1182632355313278976…
>画家が「見たい」がゆえに描かれた絵を「見る」ためには、鑑賞者は画家に身体を重ねることを余儀なくされる。例えば描線であれば、その勢いや、震え、迷いや止め方、など、画家の行為を自らの身体でなぞっていく。これは舞踊や演劇鑑賞と同様で、その身体の同期によって、画家や演者の心情が感染する。

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