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科挙の真実

 「科挙は世界で一番合格するのが難しい試験」

 このような説明を聞いたことはあるだろうか?しかし科挙の実態は違うのである。その理由は任官制度そのものにある。科挙制度には抜け道があり、上級国民は科挙を受けないコースを取っていたのだ。

隋唐 寒門の救済策にすぎない科挙制度

 科挙は隋の時代に導入されたが、科挙で登用された官僚は実際には10%に満たない。難しい試験を通過してきたから上級官僚の比率は見た目より高いのだが。その理由は、魏晋南北朝と続いた九品官人法と門閥貴族の強さにある。九品官人法は出自で出世も決まる制度と言って良い。「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と言われた様に、上級国民以外、官僚になる道が閉ざされていた制度である。採用するときにどこまで出世するから決まっていたから(最初に一品から九品に区分し、二品以上にならないと宰相にはなれない)上位官僚は門地二品と言う名門閥貴族により独占されていた。例えばこんな感じ。

  • 隴西李氏 (西涼の李暠の一族、つまり秦の李信と飛将軍李広の子孫)

  • 太原王氏 (三国志の王澤の一族)

  • 滎陽鄭氏 (三国志の鄭渾の一族)

  • 范陽盧氏 (三国志に出てくる盧植の一族)

  • 清河崔氏 (三国志の崔琰の一族)

  • 博陵崔氏

  • 趙群李氏

 そのため隋の文帝が九品官人法を廃止し、代わりに科挙を導入したと言うのが教科書世界史のストーリーだが実際には異なる。隋唐の官僚は門閥貴族の上に関隴集団(武川鎮軍閥、つまり鮮卑・匈奴系)が入っただけで実態は何も変わっていない。門閥貴族への牽制として科挙官僚を登用したぐらい。

 門閥貴族の地位の保持は、蔭位の制により補償されており、上級官僚の子は自動的に上級官僚なれたのである。つまり実態は何も変わっていなかったのである。楊国忠は名門出身ではないがかコネと口先で宰相になっている。

 なお李白は推挙で登用されており、科挙など受けていない。そもそも人生の大半がニートぐらいなのでそもそも任官したいとすら思って無さそう。官僚になろうと思えばなれたと思われる隴西李氏出身みたいだし。

 盛唐を過ぎると節度使が権限を持つ様になるが、この節度使は武官である。文官の登用制度を通ってすらいない。節度使になる方法は大きく四つほどある。一つ目は武官としてずば抜けた功績を残す事、二つ目は中央や有力官僚に指名されて派遣されてきたケース、三つ目は継承で前任の節度使が子分や実施を後継者と指名するケース、四つ目は推挙で節度使配下の軍閥が後継者を自ら選ぶケース(趙匡胤がこれにあたる)。

 節度使は、ほぼ全員が科挙を受けていない。

宋 充実した蔭位の制

 もっとも科挙を重視したと言われている宋は、唐より充実した蔭位の制により上級国民が保護されていた。上級官僚の子供は上級官僚であり科挙出身者はスペアでしかなかった。相変わらず既得権が重視されていたのである。上級官僚の子は相変わらず官僚だったのみならず、兄弟や甥まで官僚の地位を得られた。言い替えると宋の科挙制度は進士(科挙の合格者)を一人だせば一族郎党が官僚になるという恐ろしい制度なのである。あまりに任子(蔭位で官僚になったもの)が多いので品官や試験で蔭位の数を制限しようとしたらしい。科挙の合格者より蔭位で官僚になる数の方が多かった。さすがに、宰相は進士が優遇されていた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1987/37/1987_37_226/_pdf/-char/ja

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66579/1/jic052_501.pdf

明 宦官が猛威を振るう

 科挙制度が最も整備されていたのは明代である。これは皇帝独裁を行うために門閥の影響力を排除するためだった。しかし、太祖朱元璋も永楽帝も官僚を大量殺戮しているから実は官僚の数が足りていない。したがって科挙では枠が埋まらないのである。それ以前に太祖朱元璋は科挙は応用力の無い無能ばかり生み出す無意味な制度だと思っていたようで当初は推挙によってその枠を埋めていたようである。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1993/43/1993_43_271/_pdf/-char/ja

 しかし明代の科挙制度は元制度を踏襲していた。元の時代の科挙は無意味な代物でモンゴル人とウイグル人が政治を行っており、徴税は徴税請負人が行ったからそもそも漢人官僚など必要していなかった。元代の科挙は形造りにすぎなかった。そのため空理空論を問う丸暗記科挙が行われていた。

 明ではその実態との乖離を埋めるためか、科挙の試験資格に学校の卒業を義務づけた。つまり丸暗記一辺倒科挙の乖離を埋めるために学校での教育を義務づけたと考えられる。ただし最初に童試と言われる入学試験に合格しないとこの学校に入れなかった。科挙の最初の段階の郷試の問題は明律の内容が多い様で、法律を理解しているかの実用主義だったようである。しかし、学校の教師も不足する問題も抱えていた。そのため教師には落ちこぼれを割り当てることで数を埋めていた。

 その実態はこうである。

他方、丘溶(一四一八)は『大学術義補』巻九「消入仕之路」において次のような指摘をしている。
……近年では、試験官が受験生の知らない問いを出して苦しめて、自己の学識をひけらかそうとしている。初場の経書題を出すのに、しばしばわかりにくさを追求して、無理矢理句読を切って経文を破砕したり、続けてはいけないところを続けたり、切ってはいけないところで切ったりして、学ぶ者に拠り所を失わせ、本来費やす必要の無い方面に余計な労力を費やさせ、かえって経書の綱領や要点の理解をいい加減にさせてしまっている。

明代の科挙制度と朱子学 https://cir.nii.ac.jp/crid/1010282257421835910

 その結果がどこかの私立文系や小学生相手に知識マウントを取るキチガイ教師みたいな試験である。これで優秀な官僚が生まれる訳がない。実際のところ明の官僚制度は宦官に食い荒らされていたのである。明の時代には宦官が10万も居た。宦官は去勢された男性が内朝(後宮)の管理をする使用人であり、本来外朝(朝廷)とは隔てられているのであるが、外朝でも権勢を振るったのが明代の宦官である。これは皇帝独裁の副作用とも言える。宦官になる資格は去勢していることであり、科挙に受かることではなかった。しかも、明の皇帝は朱元璋をはじめとして代々の皇帝が官僚に対して不信感を抱いていたから後宮の管理だけではなく、朝廷の監視も行わせていたのである。明代に於いて地方監察官と禁軍の軍監は宦官の独占職だった。さらには徴税官も宦官が勤めていた。外交使節として赴いた鄭和も宦官だった。後漢の宦官(幼帝が続いたために取次役として権勢を振るった)との大きな違いはここである。

清 満州族が優先されていた

 清の時代は八旗(皇帝直属の隷民)出身者が高位高官を独占していた。後に緩和されるがそれでも旗人官僚と科挙官僚は1:1の比率であり、満州族が官僚になるは漢族より100倍以上易しいのである。つまりしっかり抜け道が用意されていた。しかも康煕帝、雍正帝、乾隆帝の清の全盛期が旗人官僚の全盛期だった。そもそも清の行政は満州語で行われており、シナ地域でのみ中国語に翻訳したものを使っていただけである。満州語ではなく官話が事実上の公用語になるのは19世紀中盤以降らしい。

 つまり清がダメになったのは中国人化した八旗が使い物にならなくなって科挙官僚が幅を利かせたから。

 地方官は、郷試の受験資格は持っているものの合格していない生員で埋めていたようで、これらは地方で郷紳として幅を利かせていた(中央で偉くなるより地元の地主でやっている方が割が良い)

 そのうち清の科挙制度は改定を繰り返し複雑怪奇になったようである。


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