「当事者性」使いのダブルスタンダード

インターネットへの接続やそれを中心とした様々なネットインフラやツールが一般的な庶民生活まで広がった事によって、ここ数年はネット署名という抗議形態が広がりを見せている。一定数を集めれば行政による討議を宣言している国も現れている。市民の声を為政者に届ける形が増えるのは良い事だと思う。

そこで同時に、ここ数年猛威を振るっているのがいわゆる「当事者性」だ。

ある地域でのある課題に対して、例えば、日本であれば沖縄の基地問題、福島の原発事故やそこからの放射線に纏わる問題、そういうのが議論される時に、よくよく、現地人や関係者による「当事者性」によって域外からの関心と視点が排除される。一方でその当事者たちはそれを域外に拡散し活動圧力を高める為に域外の人々の応援を集めるという二重構造をとる。これは利己的な戦略としては間違ってはいない、自己利益の最大化だから。しかし待って欲しい、外からの圧力の為の声や票を利用しながら他方、同じ手でそこへの域外からの提案や視点を排除する。この二重構造は「当事者性」からは利己的に正当化されるり、合理的でさえあるが、当事者以外はただ利用される駒に過ぎない。

何かが歪んでいるのだ。外の声を利用するのであれば、外の声の意見も検討されなければいけない、それが、意見はいりません、ただ支持だけ下さいという様な利用手段に堕するのであれば、遅かれ早かれ、ネット署名的なものは局地的には意味をや効果を成さなくなっていく事になる。なぜなら、そういう利用の仕方をしていれば、自然と「当事者性」を持たない人たちからの信用は一部の狂信者を覗いて懐疑に変わり薄れ離れていってしまう。「当事者性」を絶対の御旗に闘うのであれば、それは孤独に闘い抜けねばならないし、そうではなく外界からの手と共に闘うのであればそこにはその共闘を確かにする礎が組み立てられなければいけない。

これに非自覚的なまま局地的な課題や問題への域外からの声を多とするネット署名を都合よく利用するなら、域外の人の関心や関与は減っていくだろうし、為政側も署名者の域内保証がなければ、それを排除して問題ないので(「当事者」がそもそも活動の方向性を排除しているのだから)それを対応しなくなっていくのは想像に難くない。せっかく技術的に可能になった民主的手段の一つであるのなら、もう少し丁寧に、大事に、そして誠実に活用していった方が未来への可能性が開けるのではないかと思ってしまうのだ。


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