はるみるさんへ(オーダーメイド夢小説企画)


 やられた。そう確信したのは、残業が始まってすぐのことだった。沈黙の中、隣に座る同僚の男が、落ち着かない様子でマウスをくるくると動かしている。

「……。」
「……。」

 そもそも、少し前から嫌な予感はしていた。定時になった途端、同僚達が一斉に席を立ち、うっすらとした笑顔で「お先に!」と退社して行ったから。たまたま全員予定があるって? 偶然今日に? そんなわけあるか。
 あれは冷やかしのような、ただあいつらが内輪で盛り上がる為の、なまぬるい何か。学生時代に何度も感じたことがある空気だ。男がこれから何をしようとしているのかはもう分かっていた。
 カタカタというキーボードの入力音の合間に視線を感じて、心の中で舌打ちをする。

「…ごほん、」

 男がチラリと時計を見て、軽く咳払いをした。視界の隅で、ネクタイを直す姿が見える。
 ……これは、残りの仕事は明日の自分に任せて今すぐに帰った方がよさそうだ。いや、どうして私の仕事の進捗がお前の行動に左右されないといけないんだよ。それもそれで腹が立つ。
 内心イライラしながらパソコンの電源を落とし、デスクの下に置いていた鞄を手に取ると、慌てて男が椅子から立ち上がった。あぁ、その位置に立たれれば、もう先には進めない。お前達はいつもそうだ。自己満足のためにしっかりと逃げ道を塞ぐんだから。

「はるかちゃん、こんな遅くまでお疲れ様」
「お疲れ様です」

 無難な笑顔を返すと、男はぱっと表情を明るくした。私の心中は少しもお察しでないらしい。

「はるかちゃんってさぁ、ほんと頑張り屋だし、それなのに控えめっていうか清楚っていうか、お淑やかでさ…それに、俺、前からずっと、はるかちゃんのこと可愛いって思ってて…」

 男は照れたように頭を掻く。はいはい、自分に酔いながら『君を見てたよ』アピールね。私のことなんて少しも分かってないくせに。

「もしよければ俺と」
「ごめんなさい」

 相手の言葉を遮り頭を下げた私は、そのまま男の横をすり抜けて駆け出した。ドアを後ろ手で閉めて、廊下を走り抜け、エレベーターのボタンを小刻みに押した。連打したとて早く到着するわけではないけれど、早くここから去りたい一心だった。
 扉が開き、急いで誰もいないエレベーターに乗り込む。『閉』のボタンを押してから、ようやく深く息を吐いた。

(本当に無理気持ち悪い。死んじゃえばいいのに。)

 頭を上げた瞬間の、彼の驚いた顔が頭をよぎる。
 こいつならいける。そう思ったか? まさか振られるなんて、少しも思ってなかったんだろ。
 昔から、ずっとそうだった。背が低く、社交的に振る舞うのが苦手だった私は、服装も相まって、男が庇護欲を満たすのには最適な存在だったらしい。
 こちらは親しいなんて思っていないのに、勝手に頭を撫でられたり、下の名前で呼ばれたり……要するに、ナメているってこと。
 あの人たちは別に私のことが好きなんじゃない。パステルカラーのブラウスに、フレアスカート。リボンをつけた長い髪を揺らして、穏やかに微笑んでいる。そういう女の子が、自分の斜め後ろにいてほしいだけだ。
 エレベーターが一階に到着すると同時に、私はあることに気がつく。今日に限って、家の鍵をデスクの上に忘れてきてしまった。そうだった。休憩中、手帳を取るために一度鞄の中身を机の上に出して……

(あぁ〜〜〜!! なんかもう死にてぇ〜〜〜!!!)

 今日は最悪な1日だ。荒れる心を何とか落ち着かせながら、私は仕方なくもう一度エレベーターのボタンを押したのだった。






「あれ…?」

 重い足取りで通路を歩いていくと、先程までいた部屋の電気が消えていることに気づいた。
 私が降りてからあまり時間は経っていないはずだが、入れ違いで降りて行ったのだろうか。それならむしろありがたい。
 少し気を軽くしながら扉を開け、片手で電気のスイッチを押した。

「え?」

 短く点滅する蛍光灯の光。コマ送り映画のようにチカチカと見える景色の中に、何かとんでもないものが見えた気がする。見えたものを頭が認識しきる前に明かりが全てつくと、その全体図が露わになった。

「ひっ…!?」

 つい先程ヘラヘラとした顔で告白してきた男は、デスクの間の床に転がっている。手足はだらりと床に投げ出され、白目で泡をふいているその様子は、どう見ても普通ではなかった。
 仰向けに倒れている彼は、顔だけが横を向いていて、口から垂れた涎がカーペットに小さな染みを作っていた。……と、思ったが、頭の下にできている染みには色がついている。赤茶けた黒のようなその色は、血だ。
 よく見ると、彼の後頭部には数センチ程の切れ目ができていて、そこからは今も少しずつ血が流れ出ていた。息をしているのかはわからない。触る勇気はなかったが、男の顔色は悪く、血の気がなかった。

「嘘…死んでるの…?」

(何で!? さっき死ねばいいって思ったから!?)

 そんな、本気で死ねなんて思ったわけじゃないのに。私のせいなの? 私、人を殺したの?

 バクバクとうるさく鳴る心臓の音が外にも聞こえてしまうような気がして、気が気でなかった。
 どうしよう、どうしよう。
 震える指先を口元に当て、がじがじと爪を噛む。段々と息が荒くなり、胃液が迫り上がっていくような感覚がした。駄目、吐いてる場合じゃない、逃げないと。でも逃げてどうする? 駄目駄目考えるほど吐きそう無理。
 喉元に軽く灼けるような感覚がしてきたその時、後ろから強い力で両肩を掴まれた。ヒュッ、と息を吸い込んだ拍子に、寸前まで出かかっていた胃液が元の場所へと帰って行った。
 そのままぐるりと向きを変えられると、私の肩を掴んでいたのは、鋭い牙を持ち、黒い翼を広げた、人間ではない何かに見えた。

(あ、死んだ。)

 反射的にそう思った。目の前に見えているはずの相手がどうしてかぼやけて見えて、意識はぼんやりと遠くへ向かう。今までの人生で楽しかったことなどを思い出し始めていた。
 クソみたいなことも多かったけど、今から死ぬと思うと何だか惜しい。今まで何度も死にたいと思ったことはあったけど、実際あんまり本気じゃなかったのかもしれないな。
 妙に冷静に悟りながら、死を覚悟して目を閉じると、掴まれていた肩をガタガタと揺すられた。

「…だってくれる!?」
「え?」
「だから、手伝って! 早く救急車を呼ばないとこの人死んじゃうよォ!」
「……あれ? …もしかしてフォントルロイさん?」
「もう! 何言ってるんだよ! そうだよ!」
「いや……そうじゃなくて…」
「何!?」
「それ何ですか…? コスプレ…?」
「エェ!?」

「……アァ〜……しまったァ…」


+++++



 ガコン。
 フォントルロイさんが自販機の取り出し口に手を入れ、暗闇の中、手探りで缶コーヒーを取り出した。
 日付も変わった頃、私たちは電灯すら無い小さな公園でベンチに腰掛けている。互いに話し出すきっかけが掴めず、それぞれ、なんとなく手に持つ飲み物のパッケージを眺めていた。

 結局あの後は訳がわからぬまま救急車を呼び(その間、フォントルロイさんは止血をしていた)、家族に連絡がつくまでの間、治療室の前であの時の状況やその他諸々について手短に説明を受けることになった。
 まず始めに、フォントルロイさんは吸血鬼だったらしい。いきなりすごいことを言ってしまったが、私の頭がおかしくなったわけではない。
 会社に誰もいないと思っていたフォントルロイさんはうっかり本来の姿で社内を飛んでいてしまっていたようで、私と入れ替わりであのフロアに訪れた。すると、ばったりあの男と鉢合わせてしまい、フォントルロイさんの姿に驚いた彼が倒れ、その際机の角に頭を打ちつけてしまったのだそうだ。そこに、私が現れたと。

 フォントルロイさんは2年ほど前にうちの会社に転職してきたひとで、この会社にいる年数は私の方が長い。一応何度か面識はあったが、部署が違っているため接点はあまりなく、人づてに人物像を聞く程度の距離感だった。
 愛想がなく、短気で、尚且つ負けず嫌いであると聞いていて、どちらかというとあまり関わりたくないタイプだった。先程は非常事態だったから勢いで会話をしたものの、そんな彼と2人きりになるのは初めてで、それはそれはたいへん気まずい。

「……。」

 成分表を眺めながら、ビニールの蓋を爪で何となくつつく。へぇ、こういうののミント味って、ミントエキスっていうので出してるんだ。アイスとかも同じなのかな。
 ストローから行儀の悪い音がし始めても、まだフォントルロイさんは口を開かない。諦めて、私から話し始めることにした。はぁもう、人に話振るのとかわりと苦手なんですけど…

「えーっと…その…あれは本物なんですよ、ね…?」

 フォントルロイさんは渋い顔で頷くと、俯いてしまった。

(話終わっちゃったよ〜〜気まずい〜〜〜
コミュ力ないんだから私にトーク回させないでくれ〜!)

 心の中で頭を抱えてのたうち回っていると、フォントルロイさんも気まずさを感じたのか、コーヒーの缶をぐいと傾けた。中身を一気に口へと流し込んだフォントルロイさんは、そのままごくりと飲み込んだ。
 次の瞬間、フォントルロイさんの両目がカッと大きく開いたかと思えば、彼は両手で口元を押さえた。薄暗くて見えにくいが、顔が真っ赤になっていて、苦しそうだ。

「フォントルロイさん!? 大丈夫ですか!?」
「ア…ア…」

 まさかまた救急車を呼ぶことになるのではないかとオロオロしていると、フォントルロイさんは目に涙を浮かべながら、夜空に向かって大きな声で叫んだ。

「アツゥイ!!!」

 アツゥィ、アツゥイ…
 静かな夜の公園に響いたこだまが、緊迫していた空気を一瞬で弛緩させる。そのじんわりとしたシュールさに耐えきれず、勢いよく吹き出してしまった。
 フォントルロイさんは、腫れて膨らんだ口を尖らせ、ヒィヒィ言っている。よく考えたら、買ったばかりのホット缶コーヒーを一気に飲んだらそうなるに決まってるじゃないか。
 ツボにハマって笑い続ける私の様子を見て肩の力が抜けたのか、フォントルロイさんはラフな姿勢でベンチに座り直した。

「ハァ〜、また転職かぁ。嫌になっちゃうよもう」
「え? 辞めちゃうんですか…?」
「当たり前でしょ。2人も僕の正体知ってる人がいるようなところじゃ働けないよ」

 2年前に転職してきたのも、同じようなことが起きたからなんだろう。フォントルロイさんはしっかりしているようで案外迂闊で、ちょっと放っておけない感じがする。肩を落とす姿が情けなくて、ちょっと可愛い。聞いていたイメージと全然違う。
 それに、どうしてかはわからないけど、もう会えなくなるのは少し寂しい。このひとのことをもっと知りたい。

「フォントルロイさん」
「ン?」
「あなたの正体を知ってる人なんてこの会社にいませんよ」
「??? 何言ってるのさ」
「私、協力しますから。あの人が今日見たのは、ブラック労働が見せた幻覚だってことにしてみせます!」
「エェ…すごいこと言うなァ、」
「もし労災が降りたらあの人もラッキーでしょうし…」
「降りないよ!」

 深夜で少しハイになっていたのかもしれない。勢いで変なことを言ったから、帰ったら自己嫌悪するだろうけど、今はこの非日常への酔いに身を任せていたい。

「あ、でもまだ私のこと信用できなくて不安ですよね…? じゃあ…もし私が裏切ったら殺してください」
「殺すわけないでしょ!!」

 この時の私は、『吸血鬼は血を吸う』なんていう当たり前のことを忘れていて、後々色々大変な目に遭うのだが……それはまた別の話。

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