「珍棒」が繋ぐ、ハリウッドザコシショウとポストモダン

珍棒。この言葉を耳にした時、芸人・ハリウッドザコシショウの顔が浮かぶ。彼が各所で使う
この言葉はもはや彼の代名詞になりつつあるが、その起源を知る人はそう多くは無いと思われる。

調べると、珍棒とは静岡などの方言で「男性器」を表す言葉であり、静岡出身のザコシがこの言葉を使うのはごく自然である。

それとはまた別の話で、ポストモダン作家の高橋源一郎著『ジョンレノン対火星人』に「珍棒」は登場する。もちろん男性器の意味で。
しかし彼は広島出身であり、珍棒という方言を知っていて使ったのか、直接的な表現を避けた結果たまたま珍棒になったのかは定かではない。
そして、これが掲載されたのは1983年で、ザコシが小学生のころである。人間を形作る時期に、彼がこれを読んだ可能性も大いにある。

"もし"ハリウッドザコシショウが使う「珍棒」のルーツが、静岡の方言ではなく、高橋源一郎の小説に登場する「珍棒」の方だったとしたら、彼のぶっとんだ芸風に納得せざるを得ない。

彼のネタはまさに「無秩序」そのものである。現行のモノマネに対して、『誇張しすぎた〜』と題したモノマネは常人には理解不能であり、それゆえ笑いを誘う。彼のネタが持つ破壊性や普遍への懐疑はポストモダン的特徴だ。
世間では一般的にクオリティが高いモノマネが評価されていることに対して、彼のモノマネがカウンターさながら存在するように、ポストモダンもまた、モダニズムのアンチテーゼとして存在しているのだ。

以上を踏まえ、改めてハリウッドザコシショウが高橋源一郎著『ジョンレノン対火星人』を読みポストモダンに目覚めた結果、あの常軌を逸した芸風を貫き通していると考えると、なんだか彼がとてもかっこよく見えてくるし、その文脈はあまりにも面白すぎやしないだろうか。

話は変わるが、映画にしろ音楽にしろ文学にしろ、優れたものには「余白」がつきものである。彼の我々には理解しきれないネタの数々は、その性質故に「余白」を持ち、このような非生産的で愉快な妄想を生み出した。受動的な楽しみに留まらず、人を能動的にさせるものこそが真に優れているのだ。

ちなみに、ポストモダンが香る芸人といえばDr.ハインリッヒがいる。しかし、Dr.ハインリッヒとハリウッドザコシショウの共通点を挙げろと言われればそれはまったく困難なのである。あえて絞り出すなら「余白がある」ということくらいだろうか。
余白があるからもうええわ。

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