(再投稿)ザインとゾレンの視点からマスクのペルソナを考える


2022年1月29日 22:28 より移動


不本意なRTにより再投稿とします。

 ザイン(Sein)とゾレン(Sollen)は最近の義務教育では扱っているのだろうか。哲学で使われる言葉でドイツ語だ。ザインは今目の前にある現実、存在している状態とすれば分かりやすいだろうか。ゾレンは当為、有り体にいえば、「かくあるべき」という日本語に相当する。ゾレンはゾルレンともいうが、自分が学校で教わった当時はゾレンだったので、こちらの方がピンとくる。仮に中学生ぐらいで、これを教わっても、対応する当てはめるべき社会経験がないとなんの事だかさっぱりだろう。だから哲学が身に染みて実感を持ってくるのは、現代の日本では40代より上だ。これは教養の問題ではないが、社会経験が不足していると、年齢を積んでも分からない。社会経験とは、職業的専門性とも違う。誤解を受け、追い込まれ、もがいて、腐ってといった、主体として生きてきた歴史の事だ。

 職業的専門性は、現実にあるザインを取り扱うためのものだ。大工は目の前にある材料から家屋を組み立てる事が全てだ。薬品の開発者は、対象となる効果の再現性の確保がすべてだ。現代社会の職業人は、目的以外のゾレンなどにかけられる資金と時間などない事を知っている。専門性を取り扱う経験の少ない者は、悪意など入り込む余地などありえないザインの現場の感覚がわからない。悪意を持った高度専門性を持った組織など成立するわけがないとはそういうことだ。前任者や先輩の真似で作業をしていただけで、主体として専門性と真っ向から取り組んだ経験が少ないと、この感覚がわからないので、全く話が噛み合わない事態の原因となっている。DS(ディープステート)など現実には存在しない事がわからないのはこういう人だ。ザインの感覚が圧倒的に不足している人には説得も説明も無駄だ。


 これは個人だけの話ではない。例えば国家の戦争行為は、現実の国家の利害の対立というザインに沿って展開される事象で、ゾレンで戦争を展開した国は、近代ではその後、もれなく壊滅か衰退をしている。ドイツ、日本は身を持って体験してきたはずだ。覇権主義はゾレンなのだ。現在、ロシアと中国が目指している拡張路線もゾレンだ。故に、彼等がナショナリズムで染められた自国の主張を強行すれば、どう転んだところで、他国を巻き込む不幸で悲惨な未来しか用意されていないこともみえている。ここを強行させるのが、為政者のメンツや意地だ。明確な思想でなくても、感覚的なグレートアメリカや儒教的価値観もそうだ。もし、ゾレンを捉えられる為政者が現代世界にいれば覇権主義もありうるが、該当者は皆無だ。ゾレンの現象的実行はイデアを捉えられる者でなければ不可能だ。現実は見渡す限りの焼け野原。古代ギリシャの時代と何も変わってはいない。


 反が冠せられる彼等がやり玉に挙げているのは、ペルソナとしてのマスクなのだが、そんなものは、まともな良識を持った人間はハナから問題にしない。それらは全く別ものだからだ。公衆衛生の道具の一つに過ぎないマスクごときで奴隷化される怖れや嫌悪を持つ人間は本当にどうかしている。医療現場にいる職業人がマスクをするのは現実に感染症の対策と予防のためのザインとして必要だからだ。粉塵舞う職場や、花粉症持ちがマスクをするのも同様だ。現実に必要だからだ。それ以上でも以下でもない。

 目の前にある公衆衛生のザインとしてのマスクと、プロレスラーの顔のように、他者からみえる自分の個性を決定するゾレンとしてのマスクが分離していないか、ザインとしてのマスクを全く無視するか、意図的に有害なものとして排除を狙っている。これは、マスクの社会的実態であるザインとしてのマスクとはなんの関係もない。問題にしている彼等自身の意識がマスクに投影されているからなのだ。仮に、国民全員に、ゾレン意図の強い覆面レスラーのようなマスクを義務化する事態が有れば、彼等の主張に理はある事になるが、これは絶対にない。絶対にない現実中に生きているのは、当人自身だという事だ。何者にもなれない自分は、権力によって隠されている、奴隷だからだという被害妄想なのだ。マスクを着けるから奴隷になるのではなく、ザインの現在として彼等の意識は奴隷のそれなのだ。彼等にとって、マスクはカオナシのマスクと同じだ。荒ぶるカオナシはどうやって救われたか?銭婆に役割を与えられた。それが彼等の行き着く解答だ。なんのことはない、ザインとしてのマスクを嫌悪した果てに、場末のペルソナとしてのマスクを結局は望んで着ける事になるだけのことなのだ。ペルソナからみれば、マスク不要論は自己矛盾でしかない

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?