コギトとウォロ シマボシとアカギ

 コギトとウォロは、コギト エルゴ スムとウォロ エルゴ スムという有名な哲学用語由来から名前を付けられているようだ。

原文っぽいところから引っ張ってくると

Cogito, ergo sum  我考える、ゆえに我あり

Volo, ergo sum   我意欲す、ゆえに我あり

以前、ザインとゾレンについて触れたが丁度、対応するような関係になっている。

Sein      存在 実在

Sollen    当為 理想

 コギトは世界をあるがままに受け入れ、自分の使命を果たそうとしている。存在する自分の使命について考えるのがコギトの立ち位置だ。

 ウォロはアルセウスを従えて、自分が望む通りの世界を創り出そうとしている。意図することがウォロの存在理由だ。こういう考え方をするのはポケモンでは悪役のカリスマ指導者達だ。

 アカギ率いる現代の方のギンガ団、マグマ団やアクア団は自分達の理想の世界の実現を望んで行動し、いずれも失敗している。世界はかくあるべきというゾレンこそが彼等のモチベーションだ。コギト〜は自力で考え続けなければならず、場合によっては、当初と結論が逆になる場合さえある。刻一刻と変化する状況に対応して思考し続けるというのは簡単な事ではない。フラダリのように、世界を滅ぼすしかないという結論に到る場合もある。結論が同じでもフラダリとアカギでは過程が違うのだ。だから敗北後もウォロは自分を失っていない。アカギは完全に終わった。フラダリは死して尚、折れていない。こうした場合には、必ず意思を継ぐ者が現れる。だからサトシが心配になるのだ。

 ウォロとコギトとシロナは見た目がよく似ているが、単に同じ一族出身で、あるいは近縁だからだろう。明らかにコギトが年長者で、ウォロが一族の中で若い跳ねっ返りにみえる。使うポケモンが同じなのは、アイリスの一族がドラゴンタイプを使う事を考えれば許容範囲内だろう。シロナとウォロは似ているが、中身が違う。グラジオにも共通する厨二病のようなポケモンの召喚口上もシロナの特徴だが、ウォロはキャラ的にやらない。グラジオ、ロケット団のムサシ、コジロウはいずれも訳アリで、数量化で処理し切れない複雑な感情を抱えて生きる人間で、それを言語表現しようとするとそうなる。感情自体を否定するアカギも絶対やらない。

 むしろ、シロナのパーソナリティはコギトに近い。ウォロとシロナはコギトと同じ一族の子孫だろう。シロナとウォロは同族だが本質的に別人な気がする。魂からくる影響の描かれ方が別人なのだ。だから転生体とかでもないだろう。シロナがウォロの子孫の可能性はあるが、むしろ同じ遺伝子を持つ別人、双子か兄妹の線が一番強いと思う。シロナの年齢がウォロと同じでも今更驚きはない。

 アカギの祖先らしいシマボシも、アカギと共通する指向性を持っているが、シマボシは感情で流されず、世界を作り変えようという意図は持たない。アカギは実際、感情に流され過ぎて制御が甘いからこそ感情の否定に走るのだ。

 エンタメストーリーの悪役として、アカギの中途半端さは、悪のカリスマとしては失敗したキャラだ。一言で言うとカリスマの器ではない。一部の人達からの過剰な期待を載せられる取り扱いに困るキャラだ。

 アカギにはロトムについての決定的な発明をする情熱がないのか。赤い鎖を作る程の科学スキルと強い思い入れがあるなら他にやる事あった筈なのに、感情を否定することで、自身のモチベーションをも否定してしまったのだ。この時点のアカギにはドラえもんの電池が切れてしまった後ののび太の姿が重なるのだ。ここで逃げてしまったのがアカギだ。

 だからアカギがどんなに恵まれた境遇に生まれたとしても、財界の名士で、一見、成功者だとしても、自分で世界を変えられない引け目があるからアルセウス頼りになったのは否定しようがない。

 アカギの赤い鎖は、たまたまディアルガ、パルキアに効果があるように見えただけで、想定した通りの効果があるわけではなかった。アカギは先祖から赤い鎖の事を知らされていただけでそれが何かを理解していたわけではなかった。感情を否定するアカギがエムリットの試練を受けて材料の羽を入手したとは思えない。アカギの赤い鎖は、どう考えても失敗作の紛い物だ。

 アカギは、なぜか存在弱者の望む悪のカリスマ像を重ねられた悪役だ。設定上のアカギは優秀で財界の名士で成功者で、本来なら弱者像とは程遠い男だ。アローラのローカルな反社のスカル団のグズマのような小物ではないのに、ネット上でもなぜか似たところがあるように語られる。グズマもまた島巡りに挫折(たぶん逃げ出した)して劣等感を拗らせた男だからだろう。弱者というのは、心身の能力的な不足からくるものではなく、惨めな敗北に耐えられず(サトシのイワンコのように見込みのある相手を痛め付けるカプ達がいる)、自分が取り組むべき課題から戦わずに逃げた者への呪いなのだ。それがグズマがカプ神達から受けた呪いの正体だ。

 奇しくも、サカキが正解を言っていた。負けを認めなければ先には進めないと。息子のシルバーからオヤジは弱いから負けた!となじられ、お前にもいつか分かると諭していた。負けから逃げたグズマは地縛霊のようにその場に縛り付けられて逃げられなくなったのだ。組織を率いる悪役の長としてはアカギよりもサカキの方が格上だが、人生の中盤にも達していない子供には、それが分からないものだ。勝ち組、負け組など、そもそもが概念として成立していない架空の妄想の話だ。正確には、およそすべての人間は負け組であるからだ。負けを恐れるダンデ像には制作側の思い入れがあった筈だ。サトシもダンデさえも勝ち組ではなかったのだ。もっと大切な事があるというのがポケモンの中に仕込まれているメッセージでもある。
 サトシの過去世を匂わせる、ルカリオの主人である伝説の波動使いがいる。あの力を封印していなければ、サトシは最初からポケモンリーグで優勝して当然の強者だ。それではダメなのだ。サトシに必要なのは、むしろ、ドンドン負ける経験だからだ。最初から勝ち組のサトシは、神に見捨てられて澱んだ世界に落とされた存在になってしまう。神の視線から見れば、負け組でない者は、見捨てられた人間という事になる筈だ。

 目的のためなら、感情など捨てられる程軽視している筈のアカギが、なぜ、エムリットの試練を超えて、アルセウスと直接対峙できなかったのか。アカギ自身もどこかで分かっていて、見ないようにしているだけだ。アカギは自分に甘過ぎたのだ。望んでも自力で世界(実は世界ではなく世界を観ている主体としての自分)を変えられない事に引け目があるからこそアルセウス頼りになった点で共通している。ウォロのようにアルセウスと直接対峙しようとしなかったのは、アカギ自身がどうあれ、弱者の情念を背負わされるだけの弱気の臭いがアカギから発せられているキャラとして需要があるからなのは複雑な気持ちになる。

 どんな時代にももれなくいる、弱気の臭いに敏感な者。不幸にも、そのカリスマとして持ち上げられたのだろうか。(彼等の視点からは)圧倒的な強者のシロナに捩じ伏せられる弱者のアカギという構図は実に分かりやすいが間違っている。シロナは強者の立場にはいないからだ。当人に勝ち負けの価値観は皆無で、勝負の結果に全く執着がない。シロナが勝ち組のように見えるのは、見る側の劣等感に問題があるからだ。作品中での部下から慕われるアカギとは違い、アカギが、自分達と同じ弱者の臭いを発しながら高い社会的ステータスを持つ立場にあるというだけの理由で祭り上げられているだけだろう。中身を推察するのが苦手なので外見がすべてなのだ。彼等にとっては舐められたら終わりだから、外見だけでも威勢を張りたいのだ。だから高いステータスに飛びつく。シロナは、全く弱者の臭いのしない強者なのに、弱者の立場でものを言う→強者が、自分達と同じ立場からものを言うな!排除の理論だという事になるのだろう。どこかの世界のアンチ界隈とよく似ている。

 弱者の理屈を悪のカリスマに重ねる方法論はエンタメの表現としてはよくあるが、グズマのような男をサトシにぶつけてサトシを潰すようなやり方はポケモンとしては絶対に間違っている。アカギは世界にそれをしようとした。主人公を潰す事でいじけた劣等感の逆恨みを晴らす事を望むなら、ポケモンではなく、他の相応しい作品を探せばいいだけの事なのだ。ポケモン世界のサトシはククイのような男に育てられるのが正解だ。

 アカギの唯一の成果は、電気の精霊のような存在にロトムと名前を付けた事だけだった。アカギの感情の否定は、ロトムと会えなくて悲しい自分の感情を制御できない事への恨みでしかない。

 こんな子供じみた理由で世界の終焉を試みたのならギラティナに反転世界に追放されるのが相当としか言いようがない。かつてアルセウスに反転世界に追放されたギラティナはある意味立場はアカギと同じだ。ギラティナはなぜアカギを連れていったか?アルセウスの意思だろう。アルセウスの意思はシロナの意図と違わない。そこまでは読めているからシロナに責任を負わそうとする事になる。アカギの本質は、大人の顔色を伺って、泣く事で、相手に言う事をきいてもらおうとする子供だ。感情を否定する事で他者を支配しようとしているだけだ。

 ウォロはアルセウスを使って世界を作り変えようとして失敗した。コギトはすっとぼけてプレートをまな板代わりに使っているが、それが何か知らない筈はない。コギトにとってはその程度の代物だったというだけの事だ。コギトとアルセウスの意図の間に相違は感じない。一致しているのだ。だからコギトとシロナは極めて近いか、同一人物の可能性がある。ウォロが望んでいたアルセウスとの接触に、最初から到達していたコギト。コギトは、赤い鎖が何かを理解しており、それが人に作れる筈がないと言った通りになった。

 シロナも偶然現れたギラティナが気紛れにアカギを連れて行ったようにすっとぼけているが、結果的にみればギラティナの行動はアルセウスの意思、シロナの意図だ。アルセウスはコギトやシロナにとっては人智を超える神ではないのだろう。サトシの意図を汲んで勝手に動くピカチュウのような関係だ。

 おそらくウォロもまだ気付いていない。自分が望んだ地点に既にコギトが当たり前のように存在していると。あるいは分かっていて自分の役割を果たしたかだ(だとすればあのアルセウス型髪型は)。ウォロはまだ本心を隠していて、本当の目的は別にありそうだ。シロナもそうだが、コギトと同じ役割を持つ者は二人といない。だからコギトとシロナは実質同じか、本人である筈だ。

 アカギやウォロが切望していたアルセウスを意のままに操って、世界を望む世界をに作り変えようとする位置に最初からいたシロナという構図が浮かび上がってくる。

 アカギとシロナを対比して、シロナの言葉を強者の理論、排除と受け取る一定数がいるのは、ゲーム界隈内でさえ社会の縮図になっている事に驚く。ああ、やっぱりという落胆も感じる。シロナは、コギトと感性が似ていて、強者に見えても社会の競争から降りている人だ。自分の役割を果たすためにシンオウチャンピオンを続けている。

 シロナの言葉は、強者から敗者に向けて発せられる言葉ではない。シロナの怒りの根拠は、将来の成長を楽しみにしているサトシやアイリス達若い後進達やシロナを慕うポケモン達を思えばこその立場だ。シロナの怒りは、むしろそれを踏み躙ろうとするアカギへの弱者側の代弁者としての怒りだ。当たり前だがシロナはアカギのママではない。アカギの将来についてシロナが責任を負わされるのはおかしな話で、シロナの言葉を排除と受け取る側の世界観の問題だ。シロナが、踏み躙る強者の立場から言葉を発していないのは明らかなので、シロナの言葉を強者の言と思うのは本質的に誤りなのだ(ゲーム内のトラウマは知らん)。

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