加速する主人公は4階微分の夢を観る



サイボーグ009が加速装置を使用する時の加速は、基本的に重力加速と同じ性質のものだ。だから加速装置が起動している状態なら自由落下中の003よりも速く落下する事が可能なのだろう。

ただ、009には002のようなジェットエンジンは着いていない。空中でどうやって加速しているのかは依然不明だ。脚部のジェットもなしに加速しているとすれば、明らかにオーバーテクノロジーな技術によるもので、ギルモア博士は009に一体どんなオーパーツを埋め込んだのか?

002と009に共通するあの髪型‥頭部の後ろから圧縮した空気でも出している?もしかして足裏からヒッグス粒子でも噴出している設定??そりゃ時間だって超えそうだ。

通常、ジェットエンジンは反対側にジェットの推進力をぶち込んで、その反動で躯体の推進力を得るものだ。そう考えれば、009の加速装置は反動を使わずに加速し、上乗せ重力としても使える、実はこの世界の時空間の理を超える可能性もある超絶テクノロジーの塊だ。

近年に制作された作品は、昭和の時代には見逃されていた009の加速装置の本当のヤバさに気付いて作られている展開になっている。

乗り物が加速する時、その内部に座っている人間が座席に押し付けられる。その力は体重の何倍にも増える。上に向けて上昇するロケット内部のGが5Gになったり、ジェット戦闘機の加速時のGが3Gになったりする。

加速とはそもそも何なのか?重力加速と推進加速には本質的には区別がない。それゆえに打消し合って無重力状態を発生させる事も可能だ。接触する物体同士の接触面から垂直の抗力を受ければ推進力となり、並行に接触していれば抵抗となる。方向の違いだけで、同じものかもしれない。構造的な堅牢さに依存して顕れる力なので、砂面や沼では容易に物体は沈み込んでパワーが半減しまう。結果的に慣性力の働きをするか摩擦力になるかだけの差かもしれない。

当たり前の事が本質的に謎なのがこの世界ではありふれた構造なのだ。地面に置いてある物体が沈まないのは地球のGと同じ加速度が地面の接触面に発生しているからだ。これには何通りか考え方があるだろう。

例えば、文字通りの物体が空間を移動している運動として考える方法と、そもそもが、空間も物体も映画館の格子状のスクリーン上の出来事で映像全体が一つの模様として完成されていると考える方法だ。物体と空間が別物でないと考える時、この考え方は有効だ。

仮に実在の現象であっても、重力が見せかけの慣性力のような力である可能性は高い。偽物感がどうしても拭い去れないのだ。

ここで、急激に膨張しつつある大きな風船があると想像してみよう。その風船の表面に棲んでいる存在は、自分が風船の表面にいることを知らない。足元が加速的に膨張して広がっている事も認識できないが、上から足元方向に押し付けられるような力が働いているのは感じられる。水中で風船を膨らませた時の水圧のようにだ。加速的膨張の反作用で風船に向かって押し付けられるような力が発生しているからだ。もし、この風船の大きさが次元として微小粒子の中に収まっていた場合、周りの全てを引き込む点のような存在の仕方になるだろう。そう考えれば、重力が慣性力である可能性もある。

数学はフィクションの世界なので3階でも4階でも微分は可能だが、物理的実体を伴ったそれ以上の微分は簡単ではない。それよって顕れてくるのは世界の構造に関わる要素だ。

距離を時間で微分すると最小単位時間あたりの移動距離(速度)が出てくる。これを再度、2階微分すると速度と速度の間の変化率(加速度)が出てくる。ここまでは物理的実感としても普通生活していて分かる範囲だ。

では質量のある世界で3階微分するとどうか。加速度と加速度を比較して顕れるのは、非連続な瞬間の加速度だ。これは、どれだけアクセルを踏み込むか、もしくはブレーキを踏むという意図だ。急加速かゆっくり加速か、急減速かゆっくり減速か。湿った坂道や凍った路面の時には地面からの雑振動として伝わる摩擦力を意識をする。雨の上り坂でアクセルを強く踏み込むと車輪が空転するからそっと踏もうという判断が体感的に理解されるのが3階以上の微分だ。ドライブリコーダーにふんわりアクセルを心がけましょうと注意されるのは、この感覚で解決できる範囲なので、ここまでは割と普通に要求されたりする。そう考えると3階微分までは、割と日常レベルの範疇の感じだ。

更に4階微分によって顕れるのは、比較加速度中の瞬間加速度とでもいう意味になるのだろうか。急加速中は慣性力で座席に強く押し付けられ、逆に急ブレーキでは前方に押し出される事は経験的に知っている。

4階微分を物理的実体として説明するためにはそれなりの設定が必要になってくる。日曜日の朝、娘の発表会の集合時間に間に合わせるために、高速道路に入った田中さん一家がいるとしよう。

高速の入口では、短い距離で十分に加速してからでないと本車線に入るのは危険だから強く踏み込むという意図だ。この時の加速の加え方が3階微分だ。これを無理矢理言語化すれば、加速度中の一瞬を捉える瞬間加速度だ。

走行車線を走行中の田中さん一家のワゴン車の前に、遅めの一定速度で高級なクーペ型の車が走っている。車間距離も取れなくなってきた。クーペとその前方の車は見えない程に距離が空いている。田中父はウインカーを出して追い越し車線に入り、加速を始める。だが、なぜか左車線にいるクーペは追い越しを阻止するかのように加速をはじめ、しばらく並走して走行する事になる。

前へ出られる事を本能的に?嫌うドライバーは結構いて、あまり意識せずに悪意もなくやっている場合もあるが、煽っているつもりはないし、競争する趣味もない。おそらく鈍重なファミリーワゴンにクーペが追い抜かれるのが気に入らないのか、ゆっくりと更に加速を上げて行く。なかなか距離が開かない。どうやら自分の前を譲るつもりはない。ずっと追い越し車線を走るつもりはない。ただ、娘のイベントに間に合せたいだけなのだ。そして安全運転で素早く走行車線に戻るには十分な距離を取る必要がある。やるべき事ははっきりしている。

父は仕方なく、一気に距離を取る。田中父は加速中のワゴン車のアクセルを更に強く踏み込む。その瞬間、座席にロケットの発射時のGような反動がかかり、娘「キャー」母「ちょっと!乱暴な運転しないでよ!」車内は大騒ぎだ。

この瞬間の加速度はカウンター気味に入る加速になり加速による衝撃が一時的に最大になる。この最大加速度の瞬間を数値で認識するのが4階微分の世界だ。言語化すると誤解を生みそうだが、刹那の間を意識的に外す操作は、わかっていてもそのコントロールは難しい。変曲点でこれを捉えた3階微分なら普通の人間にもなんとか可能かもしれない。

バッティングやゴルフでのインパクトの瞬間といわれるのはこれをさしているのだろう。野球選手でも肩の強い選手はこのタイミングを捕まえるのが上手い筈だ。一般的には、自分の身体とは別の道具を介した方が、手の感覚を使える分わかりやすい。ボールやパンチが止まって見えるというのがこの感覚だ。トップ選手の全盛期に僅かな間だけ現れるような感覚だ。Dioがザ・ワールドの能力に目覚めた時は散弾の弾が空中に止まって見えたというのもこの延長線上の出来事だ。

一瞬の加速度の更に一瞬が4階微分だ。体感でこのタイミングを理解するというのは、質量世界ではカウンター攻撃を完全にものにしているのと同義と言っていい。
漫画やアニメにはよくカウンター技が登場するが、制作側にもカウンターの独特の間が分かっていないので、カウンターという名の、殴られた殴り返すというお返し技の名前になっている事が少なくないが、あくまでも作用、反作用の関係内に収まっている必要がある。

矢吹ジョーのクロスカウンターはとても有名だ。あれはカウンターの間としては正しいのだが、本人も相当なダメージを貰う辛勝がやっとなので、カウンターに転嫁される力の効率としては、成功してもせいぜい20%〜30%ぐらいと見ている。変曲点限定ならば3階微分でも最大50%までなら行けそうなので、おそらく3階の方の感覚で、そこまでやっている感じだろう。これも相手との体格差が大きい場合、30%返せたところで重さで押し切られる。

それぐらい格闘技でのカウンター技の使用は難度が高いもので、意図してかカウンターと言わずに極意のような扱いになっている作品が少なくない。アニメでは、るろ剣の安慈の二重の極みも原理は近い。呪術廻戦の黒閃の理屈もこれに近い。ゲッコウガと感覚を共有していた、人間の感覚器官ではありえないスピードの世界を認識していた時のサトシもこの状態だった。トップ選手の最盛期にしか顕れないような瞬間の感覚を10歳のサトシが使えば、それは気絶する程のダメージが来ても当然か。

打撃や衝突などのインパクトの瞬間を体感で理解し、適切に対処ができるというのは武道の熟練者でもけっこう難しい。企画物でよくあるが、ある武道の高段者が、打撃系の選手と戦うという見せ物がある。だいたい、歳のいった武道の高段者が、若い選手に数発入れられて終わる。

いくつか理由はある。武道の高段者がその武術の技を見せるために狙うのは広義のカウンター攻撃になる。相手の打撃の威力を乗せて打撃を繰り出すか、相手の動きを巻き込んで、あるタイミングで逆に切ってダメージを上乗せする技になる。本当の意味で技を効かせるためには、常に自動感知と自動処理ができるだけの体感が必要になる。

普通は、長い人生でもこれを感知できる調子の良い時期と、怪我や病気に気を取られて感知できてない時期がある。更に、その対処ができるかは別問題だ。この時点で人類の9割には無理難題という事になる。

しかも格闘技の攻撃としても効率が悪い。武道者が1回技を効かせる間に、現役選手ならば3回の打撃を繰り出せる。お互いに素手かグローブならば、ロクなガードもしない武道者ならこの時点で終わりだ。現役選手と互角に打ち合える武道者でないと最初から成立しない勝負なのだ。普通に殴った方が速いし強い。カウンターの大技一回でHP150の攻撃を繰り出してもHP100*3=HP300の攻撃を喰らう方が負けるに決まっている。

正確には強いから勝ったのではない。手数と重さでほぼ勝負が決定される競技的特性故に押し切られるだけの、面白味のない見せ物になるでは発展は感じられない。

たとえ、実際に、これができたところで、二重の極みや黒閃が打てる訳ではない。ある種の曲芸には使える可能性はあるが、日常生活では、トイレットペーパーの引き出し方がイメージのタイミングとピタッと一致して気持ちがいいとか、ゴミ箱に投げたゴミが予想通りに入るとか、ドアの開け閉めがスムーズにできるとか、そんな程度のご利益だ。

運動中の微妙な不純物を感知できるので、構造的に曲がらない方向へ曲げようとした時の不協和や余計な摩擦力の介入をいち早く察知するため、物を壊しにくくなる利点はあるが。ただ、常時、この状態が続くと、スムーズに連動する筈の流れが遮られるため、日常の普通の出来事にいちいちストレスを溜め込む事になる。常にイライラする人間になって苦しむだけなのでオフにできるスイッチが必要になるので、日常的にはあまり有用とはいえず、究極的には現世から離れて行く事になるからだ。

刹那を追求する微分の果てに何があるか。微分を積み上げて行って究極には光速を超えたり、事象の地平面に行き着いてこの世から消えるというのが、どう転んでも避けられないのがこのタイプのキャラを待ち受けている運命である事は記しておこう。

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