踏み間違い事故の責任はよく個人の問題にするが本当だろうか?

2年近く争っていた踏み間違い事故の加害者が収監されるようですね。それをうけネットでは個人叩きが活発ですが、、、。

確かに、事故後からの対応や上級というワードや医者から載るのは辞めとこうと言われていても載った事実。色々彼自身にも問題はあるのだろう。あるのだろうがわいは不思議に思う。色々問題がある人が乗れる仕組みもおかしいし、さらに言えば踏み間違いというヒューマンエラーをこれだけ繰り替えす構造もおかしいのではないか?と。

仕組み

まず単純に運転免許の制度自体の問題もあるよね。彼の事故が75歳以上の講習が多少厳しくなったと言われているが、事故データは高齢者が圧倒的に増大している。

・交通死亡事故の高齢者の占める割合は54.7%(過去2番目の高さ)
・75歳以上、80歳以上の高齢運転者は、75歳未満の運転者と比べて約2.1倍、約2.9倍高い水準にあり、高齢運転者ほど死亡事故を起こしやすい傾向が続いている。
・75歳以上の高齢運転者による死亡事故は、75歳未満の運転者と比較して、車両単独による事故が多くなっており、具体的には工作物衝突や路外逸脱が多く発生している。

もちろん、このデーターは厳しくなったあとは含まれてないので要観察なのだろうけれどもいくらなんでも多すぎだとは誰がどうみても思うだろう。事故発生確率が2倍以上の人に運転免許を与えていいのだろうか?

免許がないと生活できない

テンプレのような言い訳の定番として上記のセリフがある。確かにわいも地方の部類に住んでいるからよくわかる。まず問題は地方と都会に分けて考えるべきだよね。

都会の人は生活できないわけがないので返還はマストだろう。足が不自由になればシニアカーという便利なものもある。(わいの親父も使っているがなかなか便利なものだ。)

さて、問題は地方だ。

確かに車がないと生活できない。それは認める。であるから、自治体が免許を返還した人に地方の市街地付近の便利な場所に公共住宅でもなんでも建てて引っ越すを促すべきだとわいは思う。

車は運転しにくくなってる。でも元の場所に住みたい。っていうのはわいからしてみたら高齢者のわがままにしか思えない。ようするに自分のエゴを押し通したいために自分や他人に危険を押し付けるわけだ。それが社会全体で許容できるかよくよく議論するべきなんだが個人への攻撃が中心になって行われないのが悲しいところ。

医者の判断

ドクターストップが出てるにも関わらず運転ができる社会。これはどう考えてもおかしい。虐待と同じようにドクターストップがでた人は然るべき場所に通報できる仕組みがないのが理解できない。わいの親父も足が不自由だからよくわかる。不自由というのは本当に自分の意思で何かを動かすのがこんなんな人。そんな人が運転をしている状態はおかしいし、周りもだめだよ。っていえる社会にするべきかとわいは思う。

車の構造問題

アクセルとブレーキの踏み違え
エラーの原因分析と心理学的・工学的対策の提案

PDFを読んでもらえればわかるが、年齢に限らず踏み間違いが起きるのはアクセルとブレーキの構造的な欠陥だと思うのだが、マスメディアは特にだがその問題にはあまり突っ込まない。わいも普通に疲れてるときとかに車庫で踏み間違いをしてヒヤリハットを起こした。これが航空機業界で起きた問題なら即座に修正されるレベルだと思うだけれどもね?どう考えても疑問でしょうがない。最近の車は衝突安全防止とか色々ハイテクになってるがそもそもの問題としてのアクセルとブレーキの位置を変えようと誰も思わないのか?自動車を設計している人は毎日どこかの場所に突っ込むニュースを見るたびに心が傷まないのか?常々不思議に思う。

百歩譲ってアクセルとブレーキの位置はどうしようもないなら、せめて踏み間違い防止装置を義務化しろよと強く強く強く思う。装置がないと車検が通らないぐらい厳しくするべきかと。

あとは運転免許がないとエンジンをかからないような仕組みにするとか、(毎回はめんどくさいのでランダムで年数回認証確認がいるぐらいで)アルコール反応がでたらエンジンがかからない仕組みにするとかさぁ。もっと色々ケチを付けたいところはある。

まとめ

これだけ高齢者の事故や踏み間違いが頻発する社会。いい加減個人の責任にするのは無理がある。仕組み自体を変えていかないとだめな時期に来てると思う。来ているというより過ぎ去ってるという印象もある。何度も同じようなことが起きるのを放置する社会の仕組み自体にも構造的欠陥がありそうだけれども。

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