サイクル 第一章

コットンの枕

 私にとって初めての引っ越しが、つい昨日、三月二四日に行われました。彼が私を使い始めてから約十年、ずっと同じ部屋の中にいたので、車というものに乗せられたときは不覚にもワクワクしてしまったものです。
 彼は私をトランクから降ろすと、”205”と書かれた部屋へ連れて行きました。そこで、前の部屋にもあった本棚を組み立てて、たくさんの小説を並び終えると、これも前の部屋の時から使っていたベッドを本棚の近くにおいて、そこへ私を乗せたのです。彼が寝ながらでもすぐに本を手に取れるよう、私は本棚のすぐ横隣りです。
「やあ、また会ったね」と私が本棚に向かって言うと、「そうだな」と本棚も私に答えました。ベッドや机、座椅子に対してもそれぞれ挨拶を済ませ、初めて会う205号室とひとしきり自己紹介をして、その日は一日を終えたのです。

 それから一か月ほど経った四月の夜、玄関が開くと彼と共に背の高い男が入ってきました。
「ここが、俺の部屋」
彼がぶっきらぼうにそう言うと、
「広い部屋だな」
と男は部屋を褒めました。205号室はどことなく頬を赤らめます。 
「うわ、本いっぱいあるな。さすが文芸部に入部しただけはあるわ」
「まあね。上田は本は読まないの?」
「全然。マンガしか読まん」
 上田と呼ばれる男は、部屋の中に入って来るや否や本棚から適当に一冊手に取ると、中をパラパラとめくりました。しかし、すぐにもとの場所に戻しました。どうやらそれには全く興味を示さなかったようです。本棚はそれが癪に障ったのか、ほかの本も手に取れと言わんばかりに胸を張りました。しかし上田には何も伝わらず、本棚から目を離してしまいました。
 彼は、肩からトートバックを下ろし、財布だけ手に取りました。
「近くにコンビニがあるからそこでメシを買おうと思うけど、上田も行く?」
 上田は、おう、と言うと彼に続いて部屋を後にしました。

 部屋から二人が出て行ってから、しばらく部屋はシーンと静まり返っていました。みんな、あっけに取られていたのです。
 初めに口を開いたのは、本棚でした。
「俺、部屋に人が入ってくるの、初めて見たかも」
 私も続けて言いました。
「ほんと。こんなこと初めて。学校から家に戻ってきてからは、机に向かって本を読んでいるか、パソコンを開いているかのどちらかだったから」
 彼は、少なくとも私が知っている限りでは一度も友達というものを部屋に連れてきたことはありません。どうやらいじめられていたとか、そういうことではなさそうなのですが、なぜか友達と遊ぶということをあまりしなかったようです。だから、彼と何年も一緒に過ごしていた家具たちはみな、一様に驚いているのです。
 今日は上田という人に座られるのか、と座椅子が言えば、もし上田に寝られたら支える自信がない、とベッドが応えました。先ほどしんと静まり返った空間が嘘のように、パニックになっていました。
「みんな落ち着いて」と205号室は言います。
「友達を連れてくるのはよくあることよ。私は何度も経験しているからそんなに慌てなくても、みんなはいつも通りでいいのよ」
 そういわれて、みんな納得しました。いつも通り、本を抱えていればいいし、座られたら支えて、寝られたら包み込む。いつもやっている通りのことをすればいいのだ、と思えるようになり、その場は収まりました。

 やがて買い物から帰ってきた二人は、入学したばかりの大学のこと、文芸部のこと、今までの過去のことを話しあっていました。
 どこかぎこちない彼をよそに上田はすっかりくつろいでいました。上田はスポーツが好きで今でも高校の友達と野球をしているらしく、小説一筋の彼とは正反対の存在です。それにも関わらず、どこか波長があっているのかすっかり打ち解けてしまい、「おススメの本があれば貸してくれ」「文芸部で小説を書くなら、俺にも読ませてくれ」と言う始末です。
 彼も友達と家で話をする、という経験がなかったためか、「おススメはこれ」と本を貸し、「今まで書いた小説も今度読んでみてほしい」と今まで誰にも読んでもらったことのない小説を印刷して読ませました。

 そんな時間が夜中ずっと続き、やっと静まりかえったのは午前五時です。
 本棚も205号室も、みんな眠い目をこすりながら自分の役目をはたしていました。上田は床の上で毛布だけ掛けて寝静まり、彼はいつも通りベッドの上で私に頭を乗せて夢の中へ入りました。
 楽しい時間を過ごした後は、楽しい夢を見ます。私は寝ている彼の表情を盗み見ました。よだれを垂らしながら、彼の口元は緩んでいました。

 

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