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僕は人を愛せるのか

僕は人を愛することができるのだろうか。

そもそも僕は何のために人を愛するのか。

もしかしたら愛することに目的などないのかもしれない。

でも僕は愛することの目的を考えずにはいられない。

みんなは何のために人を愛しているのだろうか。

少なくとも僕の周りにいる「人を愛している人」はなんの目的もなく愛しているように見える。

彼らのことを想像してみる。

彼らに共通していることは、自由であるということだ。

人は人を愛している間、自由になれる。

愛するというのは、他者を自由にする一方で自分をも自由にする。

僕は自由になりたい。だから人を愛したい。

それなら僕は自由になりたくて人を愛するのだろうか。

どうなのだろう。

いや、自由になるために人を愛するというのはどうしても違和感がある。

では何のため?

かっこいいからだろうか。

確かに人を愛している人は例外なくかっこいい。

真っ直ぐで生き生きとしていて美しい。

では僕はかっこよくなるために人を愛するのだろうか。

どうなのだろう。

やはり、かっこよくなるために人を愛するのも違和感がある。

自由になるためでもなく、かっこよくなるためでもないなら、人を愛する目的は何だろう。

やはり人を愛することに目的はないのだろうか。

もしも目的があるとするならば、愛するという行為は手段ということになる。

愛することは手段なのだろうか。

もしかしたら手段にもなり得るのかもしれないが、僕が考える「愛する」は手段ではない。

もっと高尚で清らかなものである気がする。

そうなると、目的を考える必要はないのかもしれない。

では人々は、愛したいから愛しているのだろうか。

愛することそのものが目的になっているのだろうか。

もしかしたら愛するという行為はもっと自然になされることなのではないか。

後から人々は自分が誰かを愛していたことに気づくのではないか。

人が人を愛している間は、その対象に集中していて、自分を全うしていて、純粋に向かっているのではないか。

僕はいつになったら人を愛せるのだろうか。

そもそも愛する必要があるのだろうか。


僕はそれが全く分からない。

僕の中に愛はないのだろうか。


誰か見つけてほしい。僕の中の愛を。

そして受け取ってほしい。たとえそれが小さな愛だとしても。


そうか。

誰かが見つけないといけないのだ。

僕の中に存在する愛を僕自身が見つけられないように、自分の中に存在する愛を見つけられていない誰かがいるかもしれない。


それならば、僕は人の愛を見つけていきたい。

あなたの中に隠れた光を、あなたの奥に潜む優しさを、あなたが持っている豊かさを、僕は探していこうと思う。

愛を探し、愛を見つけ、愛を学び、愛を創っていきたい。

そして届けて、分かち合いたい。

未知なる愛に、手を伸ばそう。

きっと僕も愛することができる。

今ならそう信じられる。

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