「気まずい」を考える(1)

 「チーズケーキ課題」をご存知だろうか。私もつい最近まで知らなかったのだが、有名なサリーアン課題(※1)の応用編としてネット上で紹介されていた。カウンセラーの友人に尋ねたところ、一般的な心理検査で用いられているものではないようだったので、(学術的・臨床的に)信頼に足るテストなのかは分からない。ただ、発達障害の当事者であると(ネットの記事上で)公言されている方々の回答をいくつか読ませて頂き、そこに共通する現象を非常に興味深く感じた。チーズケーキ課題を以下に示す。(※2)

恵さんの家におじさんが遊びに来ました。
恵さんはお母さんに手伝ってもらって、チーズケーキを作りました。
恵さんは食卓で待つおじさんに言いました。「おじさんのためにケーキを作っているの」。
おじさんは「ケーキは大好きだよ。チーズが入っているのはダメだけどね」と言いました。
ここで質問です。気まずいことを言ったのは誰ですか?
また、なぜ気まずいのでしょうか?

 正直設問が悪いように思うのだが、問いたいことが何なのかはすぐに理解できる。「恵さんがおじさんのためにチーズケーキをせっせと作っている。でもおじさんはそうと知らずに、チーズケーキが苦手と恵さんに告げてしまう。」という状況を気まずく感じるかどうか、という話である。だから「気まずいことを言ったのはだれか」という問いは、やや回答者を混乱させるように思う。気まずい原因を作った犯人は誰だ?と問いかけているのではないかというミスリードを誘いかねないし、実際に「おじさんは恵さんがチーズケーキを作っていると知らなかったのだから、おじさんは悪くない。」と答えている方もあった。もちろんこの話の本質は誰が悪いかということではなく、むしろ「誰も悪くないからこそ」気まずいのだということ、それは「気まずい」としか言いようがない、というところにある。

 ところでこの問いに対して、「誰も気まずいことを言っていない。」と答えている方が複数おられた。その理由として、「おじさんがチーズ苦手なことを確認していなかったのだから、仕方がない」と語られているのもいくつか読ませてもらった。私はそこで、少しビックリした。理屈はもちろん分かる。おそらく私もその状況を自分なりに納得するためには、同じ理路をたどると思うのだ。最終的に出す結論も、「仕方がなかった」になるだろう。でもまずは「どうしようもなく気まずい」のだ。仕方がないんだから気まずくない、とはどうしても言えない。「気まずいけれど、仕方がない。」順序が逆なのだ。

 はじめに断っておきたいのだが、私は「気まずくなる」ことの是非をここで問いたいのではない。気まずくないなんて空気が読めないのか?というような暴力的なことが言いたいのではない。そうではなくて、どうしてこの状況を「気まずい」とまず感じる人がいて、一方で「仕方がない」が先行する人がいるのか。そこにどのような違いがあるのかと関心を持ったのである。

 そのためには、まず自分がこの状況をどのように「気まずい」と思うのか考えたい。

 初めに何も考えずにさらっと読んだときに、「あらぁ・・・」という残念感があったように思う。その「あらぁ・・・」についてよくよく考えてみると、どういうわけか恵さんのお母さんの立場での「あらぁ・・・」であるような気がした。おそらく恵さんを我が子とみなして、「おじさんに作ってあげるんだ!」とはりきって作っている子どもの様子、「おいしいって言ってくれるといいな!」という期待を感じ取っていたのだろう。それがおじさんの悪気ない、正直な一言で砕け散ってしまう感じが「あらぁ・・・」という残念感である。「おいしい?私が作ったんだよ!」「おいしいよ。おじさんのために作ってくれてありがとう。」というハッピーな未来が成立しなくなったことへの残念感でもあるし、我が子(恵さんだが)の残念な気持ちを思うと切なくもなる。おまけに、悪気なく言ってしまったおじさんがあとから「あっ!余計なことを言ってしまった!」と背筋を凍らすのではないかという未来も先取りしてしまっている。もちろん無理やり分節すればそうなるということであって、今挙げたようなもろもろが一気に「気まずさ」として体験されるといっていいだろう。

 要するに私とは全く関係のない状況の一読者でありながら、恵さんのお母さんになってみたり、恵さんになってみたり、おじさんになってみたりを瞬時にして、「あらぁ・・・」と気まずくなっているのである。それもケーキを頑張って作っている「過去」へ、あるいはいずれおじさんの嫌いなチーズケーキを作ってしまったことを告げなくてはいけない「未来」へと、時空間を行き来する。もちろんそれは意識的に行われているものではない。お話を読んでいる「いま、ここ」の私から自然に幽体離脱していき、あっちへ行き、こっちへ行きしていって「しまう」のだ。お話がそれを誘う、と言ってもいい。

 一方「誰も気まずいことを言っていない」と感じる方々はどのような経験をしているのだろうか。「ちゃんと事前に(おじさんの嫌いなものを)リサーチしていなかったのだから、(悲しくても)仕方ない。」とは、どの立場で言えるのだろうかと考えてみた。少なくともはりきってケーキを作っている恵さんの母の立場からは、その言葉を告げることができない。また頑張って作った恵さんの立場としても、「仕方ない」と納得できるにはもういくつかのステップを踏まないといけない。おじさんの立場においても、確かにその場面でおじさんは事実を知らないわけだから気まずくなりようがないが、「しまった!」という未来をその状況が含みこんでいるわけであり、おじさんに「仕方ない」とは言わせられない。

 そこでふと思ったのだ。「気まずくない」のはもしかしたら場面の誰にもならずに、その状況を読んでいる一読者に定位されているからではないか、と。つまりその状況とは完全に遮断された場所から出来事を眺めて、客観的な事実を伝えてくれているのではいか、と。そう考えれば合点がいくのだ。

 繰り返しになるが、これは「いい・悪い」の問題ではない。お話に誘われて意識が「いま、ここ」の私を離れて時空間を行き来してしまうか、あるいは事態を眺めている「いま、ここ」の私に意識がべたっとはりついているか。そこに違いがあるだけだ。関係性を重視するコミュニケーション場面では前者が有利に働くだろうし、感情に流されずに公正な判断が求められる「裁判」的場面では後者の能力が非常に必要とされるだろう。こうした意識の傾向(体質と言ってもいいように思う)がいかせるかどうか、それはひとえに状況に依存しているのだと思う。

続きはこちら↓↓↓
「気まずい」を考える(2)
「気まずい」を考える(3)

※1
サリーアン課題とは、「心の理論」の有無を調べるための課題の一つ。

※2
もともとは2012年にNHKで放送された番組で紹介されていたようなのだが、すでにNHKのサイトからは削除されているので、下記のまとめサイトに残っているものを転載させてもらった。
https://matome.naver.jp/odai/2136236619414716301

またこの課題に言及されていた当事者の方々の声として、下記のサイトを主に参考にさせて頂いた。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34414?page=4
http://morikanoko.blogspot.jp/2015/08/blog-post_31.html

ちなみにこの課題の回答は、下記のように記載されていた。

気まずいことを言ったのは「おじさん」です。その理由は「恵さんやお母さんの気持ちを傷つけてしまうから」です。

私自身の回答は「結果的に場が気まずくなるような発言をされたのはおじさん。なぜなら恵さんがおじさんのためにチーズケーキを作っているのだが、そうとは知らずにチーズケーキは好きではないということを恵さんに告げてしまっているから。」である。なので上記回答は不正確であるような気がしてしまう。

細々noteですが、毎週の更新を楽しみにしているよ!と思ってくださる方はサポートして頂けると嬉しいです。頂いたサポートは、梟文庫のハンドメイドサークル「FancyCaravan」の活動費(マルシェの出店料等)にあてさせて頂きます。