小学生の文章上達方法(2)

「自分で書いた文章を読み返しながら書く」

 なんて当たり前すぎて、「文章上達の秘訣」として伝授するようなものではないのだが、「自分で書いた文章を読み返さないで書いている人がいる」のはまぎれもない事実。なので「作文書けない」と涙ポロリンしている子どもさんがいたら、試しに「今まで書いた文章を読み返してみようか。」と声をかけてあげてください。音読するうちに、次の言葉がするっと出てきたりしますよ。

 さて今回は、小学5年生の娘の作文に付き合っていて気づいた、もう一つの作文上達法。その名も「何かになりきれ」大作戦である。

 誰が、いつ、どこで、何をした。
 これは文章の基本的な形だと思うのだが、娘の文章は(必要以上に)これらが省かれていることが多い。たとえば「そして家を出て歩いて行った」というシンプルな文章。「だれが?」「いつ?」「だれの家を?」「どこに向かって?」といちいちツッコミを入れないといけなかったりする。それを私がしつこくするものだから、ある時娘がぽつりと言った。

 「そんなこと書かなくても、分かりきってる。」

 書いてるあなたはね!

 呆れて叫びたい衝動にかられながらも、同時に「なるほど!!」と合点がいった。「自ら」なんていう言葉がひょっこり出てくるお姉さんではあるが、まだまだ作文が「モノローグ」ないしは「ひとりごと」状態なのである。読者となる他者が想定されていない作文なんて、もうつまらん大人になってしまった私には想像さえできないのであるが、10歳の彼女はそういう作文が存在する世界に住んでいるのだ。自分しか読まない日記でさえ、「未来のわたし」なり、もう1人のわたし(他者)を宛先にしてしか書き得ない世界に住む私からしたら、「一体それはどんな世界なんですか?」と興味津々でもあり、眩しくて羨ましくもある。そう、それはもう私には手の届かない世界で、そっと大事に守ってやりたいというものすごく強い気持ちを喚起しさえする。

 でも、「作文」はそういうわけにいかぬ。
 読み手となる他者を想定しなければ、成り立たないのだ。

 そこで私は彼女にこう提案した。ご近所に住む下級生の〇ちゃんに、この本の内容について教えてあげて。〇ちゃんはまだ3年生だから、知らないことがいっぱいあると思うよ。

 りょーかい!と俄然はりきって書いた娘の文章は、明らかに、誰の目にも明らかに、上達していた。なにしろ「あなたは××のことで知っていることがありますか?」という書き出しですよ。宛先のみならず、自分の役割もおそらく「先生ポジション」に設定していると思われる文章は、平易でありながらも「伝えようとする」方向性を持ったものだった。おおお。なるほど。10歳の子どもが作文を書くためには、「具体的な他者」が必要だったのね。みんなじゃないとは思うけど、何かになりきるという演出でぐっと文章がよくなる可能性は大いにあるのではないだろうか。

 その結論にたどり着いてよくよく考えてみれば、私も文章を書くときは無数の誰かを想定しているし、全体を読み返す時には特に具体的な他者ないし代表者になりきっていることが多い。まぁなので言い訳がましいようであるが筆も遅いし、何度も書き直す。いろんな人の、いろんな視点が気になって、眠らせたままの文章も結構ある。とりわけ「炎上案件かも」と思うようなテーマのものは、異なる意見を持つ人(仮想敵)をあえて作りだし、その人と対話をすることでしか文章を書くなんてできない。

 うーん、文章を書くって何気に複雑な営みなんだなぁ・・・すでに誰かが指摘していることだろうけれども。

 でもこれまで「人に伝わる文章を書けるようになって欲しい」とか色々言ってきたのに全てをひっくり返すようであるが、「別にそれってそんなに大事なことじゃなくない?」という気持ちも拭えない。すんごい葛藤に置かれるし、正解なんてもちろんないうえに、結論だって出ないと思うが、「もっと大事なことあるよな」というひっかかりが残るのだ。

 たとえば娘は、生まれながらのオープンマインドか?と思うくらい、誰とでも分け隔てなく楽しくやっていける。別にすごく積極的とかいうわけではなく、どちらかというと恥ずかしくて初めのうちモジモジしてるタイプなのだが、どういうわけか誰とでもすっと打ち解ける。先日も懇談で担任の先生が、こう言った。「変な言い方ですけど、娘ちゃんがいてくれるだけで和むんです。周りのみんな『娘ちゃんがいたら和む』って思ってはると思うんです。すごく助けられてます。」

 ・・・なんか、これ以上の何を娘に求めていいのか分からない。もう、こんでええじゃないか。

 もちろん周囲が和んでいる裏で、娘は人知れず我慢したり、嫌な気持ちになっていたり、何か抑圧しているかもしれない可能性はゼロではない。以前にも書いたが、ネガティブなことを全く表出しない人なので心配になることもある。でも1人でいてもデフォルトがご機嫌さんで、何だかいつも楽しそうにしている。先生もポロっと「幸せなんだなぁ、って思う」と仰ったが、「よう分からんけど、楽しそうでいいね。」と私もいつも言っているような気がする。そして私も娘といると和むのだが、それは「我が子だから」と当たり前のように思ってきた。しかし実際のところは、「娘がそういう子どもだから」だったのかもしれない。娘が持つ、本来的な魅力におうところが大きかったのだろうと思う。

 妄想的かもしれないが、もしかしたら娘のその魅力は「作文上達」と引き換えに半減させられてしまうかもしれない、と思ったりしてしまう自分がいる。娘のオープンマインドさ、分け隔てのなさ、周囲と仲良くなる力が、自分と他者の境界線が曖昧なところで成り立っているのだとしたら、境界線をあえて設定して線引きしてしまう「作文」がその土台を壊してしまうのではないかという恐怖。単純に「大人になるってそういうことよ。」とは、どうしても言えない。だって大人になるよりも、本人が機嫌よく、周囲とも楽しくやっていくことの方が幸せではないのか?そう思うのは大人の独りよがりである気もするけれども。

 まぁ何が幸せかは分からないし、ずっと子どもでいることもできないわけなのでその価値判断をしたいのではない。ただ、「作文を書く」ってお勉強的なスキルの習得というだけではなく、もっとこう他者との関係とか、自分のよって立っている土台の部分への影響が結構あるんじゃないかな、と思うとドギマギしてしまうのも事実である。

 悩ましいなぁ。

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