マイクロライブラリーサミット2017_梟文庫2_

しかけをつくる

 梟文庫は、まちの中の小さなしかけだと思って運営している。既存の制度の隙間の一部をそっと埋めるような、そんなしかけでありたいと思っている。 

 たとえば、子ども。学校と家庭以外にも、地域の中に居場所があったらいいと思う。家庭にしても、学校にしても、子どもはその環境を自分で選ぶことはできない。どんなに窮屈でも、息苦しくても、「じゃ!」と言って立ち去ることは(なかなか)難しい。でももし地域の中に子どもを迎える場所がいくつもあったとしたら、自分の肌に合う場所を選ぶことができる。だから梟文庫だけでなんとかなる話ではない。「しかけ」というからには、梟文庫が性に合わない子どもたちがくつろげるような場所が、地域の中にどんどん増えるようなはたらきをしなくてはならない。 

 教室という閉鎖空間の異常さは、そこを出てみないことには気づかない。現在がんばっておられる先生方や、教育そのものを批判しているのではない。そうではなくて、これも「しかけ(構造)」の問題なのだと思う。同じ年の子どもが30人、40人と集められて、1人の先生がその集団を「まとめる」という構造にそもそも無理がないだろうか。誰もそんなことを望んでいなくとも、逸脱を牽制し合いながらまとまっていくしかない。「そんなのはもう無理なんだ!」と音をあげてその場を立ち去る不登校の子どもたちの数がどんどん増えていても、「しかけ」そのものがダイナミックに変わる兆しは全くない。今のところ、別の形を提示しながらその大きな「しかけ」を補完するはたらきがせいぜいである。でも、均質的な空間で空気を読み合うことから解放されて息をつく場所は、やはり必要だと思う。

  そして「学ぶ」ということ。様々な知識を取り込んでいくというだけではなく、まずはワクワクするようなことに出会える機会が大事なのではないかと思う。あっ!と驚くようなこと。へ~!と感心すること。そこから「もっと知りたい!」という学び心がむくむくと湧いてくるのではないだろうか。梟文庫で大人気講師のwataさんは、生き物をこよなく愛する大人として、子どもたちにそんな体験をおすそ分けして下さっている。ダチョウの卵を見て触れて比較して、最後にはトンカチでたたいて割って目玉焼きにしたワークショップ「鳥の巣と卵」。いろんな海藻を水でもどして標本にしたあと、テングサという海藻から寒天を作った「海藻天国」。こういった体験で目を輝かせているのは、何も子どもだけじゃなかったりする。実のところその場にいる大人たちにとっても目から鱗のワクワク体験で、その後自分の生活の中で、関連する色んなものが気になったりしてしまう。関心や興味の幅がぐん!と広がる。年齢問わずに「学びのとびら」をコンコン!とノックして下さるのが、wata先生の魅力だ。 

 そんな、思いがけない出会いが生まれる「しかけ」はこれからも大事にしたいと思っている。梟文庫をひらこう!と思いついた当初は実のところ何のあてもなかったのだが、「場がある」ということで人が人を呼び、様々な人がそれぞれの「好き」や「得意」をシェアして下さっている。今までは知らなかったし、つながりようもなかった、それらの力。もちろん「やりがい搾取」のような形になってはいけないから、お互いが気持ちよくシェアできる形を「しかけ」として工夫し続けていきたい。それとね、「これが好きだ!」という大人に出あうのって、子どもにとって(大人にとってもだけど)それだけでも面白いことだと思うのだ。いろんな大人がいて、いろんなことに関心があっていい。そして「好き」なものを語るそのワクワク感と「はんぱなく伝えたい感」を感じとることができるって、それだけで「生きる」ということへの強烈なメッセージなんじゃないだろうか。 

 いろんな人がいる、っていうことが大事なことであって、無理にまとまらんでもいいような「しかけ」が社会にとって必要なのだと思う。ただここで私がいつもモヤモヤしてしまうのは、いろんな人がいて、居合わせられる社会(場)というのは、「私」にとっても「あなた」にとっても100%居心地のいい場所ではないのだということを、なかなか言わせてもらえないということだ。誰かにとって100%の場所は、違いのある他者にとって100%ではないということでしょ?それはいろんな人が居合わせられる場ではなくて、独占あるいは支配ということになる。だから本来は、それぞれにちょっとずつ諦めたり妥協したりやせ我慢したりしながら、「しかけ」を少しでもマシにしていくよりほかないのだ。(※1)ここの、「違いに慣れる」というか、もっと強い言葉で言ってしまえば「不快に耐える」ということ、それでもギリギリ排除しないというラインを模索しながら常に揺れ動いていられるということが「しかけ」には必要なのだと思うのだが、なんだかどうもそのあたりのことは見過ごされがちのような気がしてならない。前回の清潔の話でいったら、「臭いのには目をつむろう」「でもやっぱりこれは耐えられるレベルではない」「お風呂に入ってと言おうかな」「でもお風呂入るのがこの人には負担なんだろうな」「言いにくい」みたいな間でモヤモヤするしかない、ということなのだ、結局。モヤモヤしながら色々なことを試しつつ、諦めつつ、あるいは待つうちに事態が急展開したりすることもありつつ、やっていくしかない。それに対して「お風呂に入った人しか来てはいけません」というルールを導入したら、清潔好きには居心地のよい空間が即座に形成されるわけだが、そうでない人(清潔において別の秩序を持っている人)が完全に排除されることになってしまう。裏を返せば別の秩序において自分がマイノリティだった場合、自分が排除される側になってしまうということである。 

 ただこのモヤモヤへの耐性に関しては、やはりそれぞれの身体的(脳的)特性が関わっていて、高い人低い人といる。正確に言えば、モヤモヤが負担になる人と、そうでもない人がいる、ということである。誰だってモヤっているのは多少なりともしんどいものだが、その(身体的)負荷は人によって違う。モヤモヤしていることを忘れていられる人もいれば、白黒はっきりつくまで日常生活が困難になる人もいる。それも多様性のうちなのであるから、モヤモヤ耐性を考慮にいれることができる「しかけ」だって必要だ。これは理想を語っているだけで、まだまだ前途多難である。 

 誰かが困っている。何かがうまくいっていない。それは、「誰か」の能力や資質の問題でも、「何か」が起こっている場所だけの問題でもない。もっと大きな「しかけ」がうまくはたらいていないのだという視点を持ちながら、せっせとオイルをさしたり、ねじをしめたりメインテナンスをしていくよりほかない。でもこのしかけには、ぱっとひと目で見渡せるような客観的な設計図なんてない。だってそもそも私自身がそのしかけの中に含まれてしまっているのだから。そして手を加えることによって、絶えず変化もしている。こっちにオイルをさしたら私がはかどるかもしれないけれども、どういうわけかあっちがギスギス言い出した、なんてことだって起こるだろう。動きながら理解をして、また動くことの繰り返ししかできない。 

 こうして「しかけ」に目を向ける「しかけ」を作ることで、

 「自己責任」論を、あざとくてもいい、回避したいのだ。 


※1このあたりのことを最近内田樹先生がブログで「気まずい共存」というふうに書いておられ、「そうそう!そういうことですよね!!」と激しく共感したところだった。以前「対話」シリーズ冒頭で首相のことを批判しておきながらどんどん歯切れが悪くなる私自身にモヤっとしたものだが、気まずいながらも共存していくしかないんだという内田先生の論述を読んで、「それでいいんだ」とホッとしたものだった。

 BLOGOS「気まずい共存について」:http://blogos.com/article/240747/

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