小学生の文章上達方法(1)

 娘がまだ小学校低学年だった頃、夏休みに絵日記の宿題が出された。絵を描くことが中心で、作文部分はせいぜい300字程度なのだが・・・あまりの書けなさに驚愕した。「なんで!?なんで書けないの??」というビックリから始まり、やがてイライラ・・・一気に修羅場と化したご家庭は、あとから聞くところによると我が家だけではなかったらしい。・・・そんな宿題、要る??

 しかし私はこの経験から、ひとつの重要な事実を知った。目の前にいるこの小さなひとは、「作文」という一つのまとまりをもった形として表わせる出来事として、なにごとかを経験してなどいないのだ、ということ。

 逆に言えば、多くの大人は「作文的」にものごとを経験してしまう(させられている)ということである。例えばディズニーランドへ行くならば、そこへたどり着くまでの道中はクローズアップされず(捨象し)、様々なアトラクションを堪能するところがクライマックスである。他者に「ディズニーランド行ってきたんだって?どうだった?」と問われて、「京都から新幹線に乗って・・・」というところから話し始めるということは、(よっぽど新幹線内でオモシロいネタになるハプニングでもない限り)まずない。やっぱり「新しいあのアトラクションよかったよ」とか、そういう話になると思う。「ディズニーランドどうだった?」と聞いている人が求めているのもそういう話だし、別に家を出てから帰るまでの経時的レポートが聞きたいわけではない。お互いそうした暗黙の合意の上で、コミュニケーションをとっているのである。しかし小さいひとは、そんなことお構いなし。「ディズニーランドに向けて出発→到着して、様々なアトラクションを楽しむ→あぁ楽しかったと言って帰る」というフローとしてさえ経験していない可能性が高い。おそらく「ディズニーランドへ行った」ことと結びついている断片的な記憶が、(聞いている側からは)脈絡なく飛び出してくる。新幹線の中で酔ってしまった話だったり、帰りの電車が混雑していて大変だったという話だったり。下手したら両親にとっては「ディズニーランド行き」が夏休み最大のイベントであったとしても、子どもは「夏休みの思い出」という作文テーマにディズニーランドではなく「イオンに行った」ことを選ぶかもしれない。その理由は「昨日行ったから」だったりする。ええ、最新の情報に引っ張られているだけである。親としては「そこ!?」なんてガクっとしてしまうが、子どもは「経験の総体」から「クライマックス」や「最大のポイント」をピックアップするという、そういう経験の仕方をしていないのだ。

 そんなひとたちに、起承転結のある作文を求めても仕方がない。ていうか、つまんないよね、と思う。FacebookやInstagramが「経験のクライマックス」演出に拍車をかける中、脈絡とか関係なく「いま、ここ」を生きることのできる時間をもっと堪能したらいいよ、そんなふうに思ってきた。見栄えのいい作文なんて、書けなくっていい。思ったように、好きに書け!小さいひとの、特権だ。

 しかし高学年になってくると、今度はまた違う側面から作文にひっかかりを持つようになった。何を書いても、「面白かったです。また行きたいです。」でしめくくられているのである。もちろん「面白かった」は「楽しかった」「悲しかった」など複数のヴァリエーションがあるのだが、「とりあえずそうやってまとまっていればいい」感満載なのと、表現があまりに貧困なのがつらい。これは作文だけのことではなく、「作文的」経験の最も貧相な形である。なので「面白い」と「楽しい」という言葉の使用をいったん禁止して、「面白い」「楽しい」と感じる手前で「何があったのか」「その時どう思ったか」「どんなふうに感じたか」をもっと細かく書いてみるように促してみた。これは現在も実践中だが、少しずつ表現の語彙が広がっていっていると感じている。

 ところで、今私は小学校5年生の娘に「月に一度書評を書く」ことを依頼し、そのお手伝いをしている。そこにはやはり、「人に伝える」文章を書けるようになって欲しい、という願いがある。低学年の頃から、180度方向転換だ。自分が「いま、ここ」を生きる世界の中心でよかった時代から、他者と表現を共有していかなければならないお年頃になっている、ということである。でも別に人は文章だけで何かを表現するわけではない。言葉には言葉の限界があるし、言葉以外の表現方法もたくさんある。娘を見ていると言葉よりも別の表現手段のほうがフィットしていることも感じるし、言葉の表現だけを訓練せよとも思っていない。でも、言葉や絵、音楽、運動など色んな方法で表現できたら、きっと自由を感じられるんだろうな、と思う。さらにそれを他者と共有することができたら、大きな喜びを生むのではないかと。だから言葉だって、ほかの表現方法と同じように大切だ。

 そんなわけで書評書きに付き合っているのだが、はじめの内やはりあまりの書けなさに絶句する。まず私が驚いたのは、一文書くと「次何書いたらいいの?」と聞いてくることだった。

 次何書いたらいいの?

 私にはそれがどういう意味なのか、分からなかった。まるで「書かれるべきこと」が正解としてあって、それを書こうと試みているふうである。それに対して「正解なんぞない!自分で考えろ!」とイラついて言ってしまえば、また元の木阿弥、修羅場と化すこと必至である。そこで私は考えた。なんで次の文章が続かないんだろう?前の文章から自然と続いていくはずなのに、なんでぴたっと止まってしまうんだろう?そして私は娘に言った。

 「ちょっと前の文章を読み返してみて。」

 文章をさかのぼって音読。そうしたら、なんと!するっと娘の口から次の文章が出てくるではないか!

 「そうそうそう!!それでいいんだよ!」

 次何書こうと立ち止まってウンウン唸っていても何も出てこなかったが、文章の流れの中に身を置けば、次に続く言葉が自然に出てくるのである。当然と言えば当然のことなのだが、私自身も文章を書きながら何度も何度も読み返していることなど当たり前すぎて、「教えること」だとは思い至らなかった。・・・ていうか、目の前にいるこのお年頃のひとが、文章を書くときに前の文章を読み返していないということに、今の今まで気づかなかったよ。なんなの?一つ書き終ったらおしまいってどういうこと?意味不明だが、娘にとっては10年間文章を書くって「そういうこと」だったのだ(※1)。

 それ以来筆が止まると、「はい、読み返し~」と声をかける。そうして繰り返し読み返すと、妙にかっこいい言葉が飛び出してきたりもして面白い。「自ら、って言葉どうかな?」なんて娘が言うと、「ええやん!かっこいい言葉思いついたなー」と言いつつ、内心「自らって!そんな言葉を使うようになってしまって・・・人と自分の区別もついてなかったのに。」という寂寥感にもとらわれる、複雑な母心・・・

 次回は、もう一つ発見した文章上達の秘訣について。文章を書くために大事なのはやはり、「他者の視点」だった・・・何かになりきれ、みんな!

※1
LINEの文章投稿スペースがあまりにちっさいのとか、本当に嫌である。読み返すことが前提とされていないのだな、と思う。というより、読み返すようなコミュニケーションが想定されていないと言ったほうがいい。LINEは短文で瞬時に応答するコミュニケーションツールなわけだが、こうしたツールがのちのち「長文」を書く(人間の)能力にどう影響を及ぼすのか分からない。平気で長文LINEやりとりする世代であるが、そのうち「長文」文化がなくなるんだろうか・・・

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