交換日記に民主主義を学ぶ

 交換日記。

 何が楽しいのか分からない人には全く理解しがたいその営み。

 ムスメも嬉々としてお友だちとしていたのだが、つい最近「禁止になった」と突然言ってきた。その時は大して気にもとめず、「ふーん。なんで?」「分かんない。」「・・・そこが大事なんちゃう?」という気の抜けたやり取りをして終わっていたのだが、学級懇談会で担任の先生がやや気になることを話された。詳細についてここで書くつもりはないが、トラブルがあったので改めて禁止になった(もともと禁止だったらしいことも初めて知った)という。

 私がまず気になったのは、トラブルそのものでもないし(そういうことは交換日記などにつきものだ)、交換日記が全面禁止になったということでもない。何が私を狼狽させたかって、「その出来事からムスメが何も学んでいなそうである」という事実である。思わず「はいっ」と手を挙げて「何で禁止になったのか娘は全然理解していないようですが、禁止の経緯については何か先生の方から説明はして下さったんでしょうか?禁止になったということよりも、なんで禁止なのかということを自分で考えるのが大事だと思うのですが。」と確認したのだが、トラブルがあったことをみんなで共有し、陰でこそこそしているのはよくない、中学生になったらLINEなどでも同様の問題が起きるからという話をされたとのことだった。

 それなのに、「分かんない。」とは何ごとダー!

 いやもちろん、思春期。おしゃべり全開のムスメとて、親に何でも話すわけではない。そしてわが娘、ネガティブなことは極力口にしたくないという、謎の心性の持ち主。言霊を信仰しているのでは?と疑いたくなるレベルの頑なさもある。だがそういった全てを鑑みても、「分かんない」が許される事態ではないだろう。なぜなら自分が直接トラブルに関わっていないかもしれないが、「交換日記」文化を作っている当事者だし、誰かがそのことでとても傷ついているのだ。

 やや立腹しながらもそのことは極力抑えて、帰宅後ムスメに尋ねた。「交換日記が禁止になった理由を、あなたはどう理解しているの?」すると突然、ムスメはハラハラと泣き出した。びっくりして「なんで泣いてるの?」と尋ねると、「交換日記がしたいから。」

 ・・・思いがけない言葉だった。でもそれと同時に「やはり、理解できていないんだ」と思った。それは別に彼女が責められるべきことではない。彼女には彼女なりの理解の仕方があって、どちらかというと論理的な理解を苦手としている。だから彼女には、「トラブルがあったので、トラブルの温床となるような交換日記をやめましょう」という論理的な理解の筋道がまだ見えていないのである。「分かんない」は何かを誤魔化しているのでもなければ、他人事として処理してしまおうという態度でもない。その言葉そのまま、何がなんやら「分かんない」のである。私はその言葉を受け止めて、事態を整理することにもっと早く手をかすべきだったのだ。

 私はそれからムスメに、起こってしまったトラブルと交換日記の関係について、交換日記などの閉じたツールでなぜトラブルが起こりやすいのかなどを説明した。そして「先生が禁止と言ったことを守ればいい、というのではなくて、なんで禁止になったのか自分で考えて理解することが大切なんだよ。」ということを、何度も何度も伝えた。我ながらくどかったと思うが、何よりも大事なのはそこである。

 その上で私はさらに彼女の「交換日記がしたい」という気持ちについても指摘した。

 「だってあなた、納得してないじゃない。お母さん、それは当然の気持ちだと思うよ。一部でトラブルはあったとしても、あなたたちは楽しくやっていた。それなのに何で禁止にしないといけないの?って思うのは当然だし、それはむしろ伝えないといけないことだったと思う。全部禁止にするというだけが解決策ではなく、どうしたら誰も傷ついたり悲しんだりしないように続けることができるのか、みんなで話し合うことだってできる。その上でやっぱり悲しむ人が出てきてしまうのは避けられないから禁止にしましょうってなったら、みんなで決めたルールは守らないといけないけれども。」

 このあたりのことに関しては、どれだけ伝わったか正直なところ分からない。これから納得のできない事態に遭遇した時に、その気持ちを伝えることを励まされ、伝えてくれてよかった、ありがとうと言われる経験を積む中でしか、きっと理解はできないだろうとは思う。逆に言えば大人の側としては、「空気を読んで黙っておれ」という無言の圧力をかけたり、せっかく勇気を振り絞って出した意見を決して軽んじてはいけない、ということになる。そうした信頼関係をベースにしなければ、のびのびと意見を言う文化なんか作れないのだ。

 交換日記だって小さな社会である。先生も仰ったように、その先にはLINEやSNSがひかえている。それへの参加を断固拒否するにしても、「みんな使っているし」と乗っかるにしても、それらと「どう付き合うか」ということがそれぞれに問われる。何にしたって道具というものは、便利で快適な面もあれば、思わぬ副産物を生みだして困る面もある。そうしたことを考慮に入れながら、この社会がどんなふうであったらいいのかみんなで考えて使っていくよりほかない。

 「みんなで使うものについて、みんなで話し合って決める」それは、民主主義の根幹に関わる、大事な、とても大事な営みだ。これを書いている今現在選挙戦真っただ中であり、ある意味で日本の国民は民主主義を選ぶのか、独裁を選ぶのかという重大な局面を迎えている。にもかかわらず投票率の予測は低いままであるし、「くだらない選挙だから投票は棄権する」と公言して棄権を呼びかけている著名人もいる(※1)。はっきり言って、これは教育の失敗である。もうすでに言われているように、投票しないというのは意思表明になどならず、単に「当選者への白紙委任」の意味しか持たない(※2)。そんな単純な事実は、小学校のクラス運営の中で本来学ばれるべきことではないのか。「一つしかないボールをどうシェアして使うか」話し合って決めようとしているまさにその時に、「オレ、どっちの意見にも賛成できないから一抜けた!」と言って抜けて、決まったルールを「オレは賛成なんてしていない」と破ったり、「オレには関係ない」と他人事のように振る舞うを許すのか、という話なのである。そういう事態を許さない、ということが言いたいのではない。むしろ子どものうちにそういう事態が起こることを、歓迎すべきなのだと思う。そうした具体的な生活の中で、「どっちの意見にも賛成できない憤懣やるかたない気持ち」を経験したり、「どっちも嫌だ!と一抜けるのはズルい。それはおかしいんちゃうか。」と友達に言われてみたり、一抜けしたところで思い通りにならず「どっちがマシかを考える」ことにつながっていったり、「一度決まったことも、納得いかなかったらまた話し合える」ことを学んでいったりできるのだ。しかしもちろん経験をそのままにしておくのではなく、その「一抜けた!」経験を振り返って意味を考えること、それが「民主主義」という概念とどう結びつくのかを教えること。そういう教育が、求められているように思う。

 どこかで誰かが「決めた」ことに従うだけではなくて、「決める」過程にコミットしていける。自分の思い通りにならないからといって意思表示をせず、「自分が決めたことじゃない」と駄々をこねたり、知らんぷりをしない。たかが交換日記。されど交換日記。大事なことを学ぶ材料は、あちこちに転がっているのだなと思う。

※1
「今回の選挙、くだらなすぎる」 投票棄権の賛同署名を集める東浩紀さんの真意とは?
http://m.huffingtonpost.jp/2017/10/09/hiroki-azuma_a_23237074/

※2
時代の風:白ける解散・総選挙=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171001/ddm/002/070/110000c

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