触覚由来の幸福感

 モフモフ欲求が高まっている。

 いや正確に言えば「あったかくて、フワフワとかすべすべとか触り心地のよいもの」なのであるが、日々それを希求してやまない。「それ」は実のところつい最近まで「子ども」だったのであるが、子どもはもうすでに手を離れてしまった。だから「なにか、あったかくて気持ちのいいものを!」と求めている、というわけである。

 ハムスターとかうさぎなどの小動物も見に行った。でもちょっと物足りない。本当はネコがいいのだけれども、ネコアレルギーなもんで無理。犬は散歩が大変だ。ミニブタもいいな。でもググると全然「ミニ」じゃないらしい。やせっぽちのムスメの倍の体重!?梟もちょっと怖いけどいいかも。え?ウズラ(卵ぢゃないよ)が餌?無理むり!オコジョってめっちゃかわいくない?・・・飼えるのか?んなわけない。

 不純な動機でモフモフを求めてネットを彷徨っているのだが、あぁこんなことしてる時間があるんだったら換気扇掃除しろよ!と脳内に非難の声が響き渡る・・・やれやれ。

 でもね、失いつつあって初めて気づいたんですよ。
 子育ての幸福感みたいなものって、およそ8割がた触覚由来なんじゃないかって。
 ・・・言い過ぎ?

 まぁ「あったかくて触り心地のいいもの」が子ども(子育て)を象徴する何がしか、っていうふうに言おうと思えば言えるんだろうけど、いやもっと物理的なものなんだよ!と思うのである。子どもに触れたとき、「あなたが愛おしい」という宛先のある感情ももちろんあるが、「いやもう~すっべすべ!気っ持ちいい~!!」と夢見心地になるのとどっちが先なのか分からない。だから我が子だけではなく、よその赤ちゃんだって隙あらば触る。「抱っこさせて~」とねだる。あぁ~やわらかい~あったかい~すべすべだ~ムニムニだ~・・・変態みたいであるが、この世のものとは思えぬ触り心地にうっとりしてしまう。

 「モノ」扱いするようでやや罪悪感があるが、子育て期間というのはこれらが日常手の届くところにあるわけですよ。手をのばせばすぐそこに!

 そしてハタと気づくのである。
 えっ私もうこれナシで生きてくの?と。

 いや、40年の人生のうちに「それ」があったのはたった10年間だけで、あとの30年間は別にそんなこと考えずに生きていたわけである。だから別になくたって生きていける。でも一度知ってしまったこの素敵さを手離すのは、あぁ、たまらなくツライ・・・

 それにしても「独立した個人のおとな」っていうのは、他者と物理的に触れ合う機会がものすごく少ないな、と思う。親密な関係にある人以外と触れ合うなど、ほぼあり得ない。日本では挨拶としての握手とかハグも、そうない。だから賛否両論あるかとは思うが、もっと物理的接触ってあってもいいんじゃないかな、と思う時がある。おばあちゃんと出会ったときに、むぎゅっと抱きしめるとか。友人と「ありがとう」って握手するとか。「ことば」とは違った形で伝わりあう「なにか」は触覚を介するものだけではないけれど。

 そしてもちろんハラスメント系の人々に「スキンシップ」と称した犯罪の道を拓いてはいけないから、慎重に言葉を選んでいるのだが。でもそれらが問題になるのは「触れること」そのものではなくて、(嫌だと言えない)権力関係の中で、他者の人権を踏みにじる点にある。その区別がつかない人がたくさんいる社会で「スキンシップ」を語るのは勇気がいるが、でもねぇ、触れることってやっぱりヒトにとってすごく大事なことなんじゃないかと思うのだ。少なくとも私は他者のからだを身近に感じながら生活したいと思っているし、自分がおばあさんになったらいろんな人とハグしあえたらいいなぁと、そんな光景を漠然と思い浮かべてしまう。

 でも、なんで「おばあさんになったら」という前提つきなのだ?
 今だって、別にそうしたいならそうしたらいいのに。

 ここでやはり「独立した個人のおとな」の壁が立ちはだかる。自分もそうだけれども、相手もそれを許さない、くっきりとした境界線。おばあさんだってもちろん「独立した個人のおとな」なのだが、どうしても自分1人でできないことも出てくるし、他者の力を具体的にかりないといけなくなるという意味で「完全に」独立した個人のおとなとして完結できなくなる。そこに他者を迎える「余地」みたいなものが生まれる。

 だから別に「おばあさん」になるまで待たなくても、気持ちが、からだが、弱っている時だって同じことなのだ。何か「弱さ」みたいなものを抱えたときに、他者は「大丈夫だよ。」と肩を抱いてくれたり、ハグしてくれたりする。逆もしかり。気落ちしている友人の隣で、自然と肩を寄せ合うことができる。きっと、からだがひらいているのだろうと思う。

 だけどさ、とここでまた思うのである。
 普段から私はそんなに何でもできやしないし、おばあさんまであともう少し時間のある40代の今だって「独立した個人のおとな」として完結なんてできてないぞと。

 方向音痴で車の運転もヘタクソで、「家計簿の帳尻が合わない!何が起こっているのか分からない!」と涙し、換気扇の掃除もなかなかできない人間である。

 まぁこうやって「できません」と開示して色んな人から助けてもらっているのだけれども、それでもやっぱり「できないとは言えない」呪縛はゼロではないし、おとなとして完結しよう、閉じようという推進力は強力だ。なんでだろ。

 でもどう考えたって、頑張って独立するより「大丈夫!」と肩を抱いてもらえたほうが幸せだ、私は。別に人生の一大事の時だけじゃなく、たかが家計簿がうまくいかない時だってそうしてもらいたい。いや、たかが家計簿だからこそ必要なのかもしれない。「こんなこともできない私」に打ちのめされているんだから。

 「世の中は厳しいんだ!」「甘えるな!」という声が聞こえなくもないんだけどねー。

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