「気まずい」を考える(2)

 さて、チーズケーキ課題の「その後の展開」について想像を膨らませてみたいと思う。恵さんがおじさんのためにチーズケーキを作っているが、おじさんはそうとは知らずに「チーズが入っているのはダメ」と言ってしまう、「あちゃー」な場面。その後恵さんが作ったケーキがチーズケーキだと分かる展開になったときに、それぞれがどう振る舞うか。正解はもちろんない。恵さんとおじさんの関係性によっても、それぞれの文化によっても、振る舞い方は異なるだろう。ただ、意識が「いま、ここ」から離れていきやすい文化圏の人々がおそらく選択しがちな「その場を丸くおさめる」振る舞い方というのは、ある。たとえば、以下のようなやりとりなんてどうだろう。

恵:「え~」と落胆。
恵母:「あらぁ、事前にお聞きしておけばよかったですねぇ、ごめんなさい。恵ちゃん、今回は残念だけど、またおじさんの好きなおやつを聞いて、作ったらいいじゃない。」
おじさん:「いやぁ、恵ちゃん、せっかくおじさんのために作ってくれたのに悪かったなぁ。一口だけ頂いていこうかな。」
恵:「おじさん、なんのケーキが好き?今度はおじさんが好きなケーキ作るよ!」

 ・・・無難な感じである。もちろんこれは一つの例であって、様々なパターンがあるのだろうが、そこには「概ね同じ方向に流れを作って、着地したい」というみんなの意思のようなものが存在するように思う。それはすなわち、「おじさんのために一生懸命ケーキを作った恵さんの気持ち」をどうにか受けとれる形にしようとする意思である。そこへ向けてみんなが共同作業をしている、と言ってもいい。お母さんが「事前に聞いていなくてごめんなさい」とおじさんへの配慮を示すのも、恵さんの気持ちを受け取れないのはおじさんのせい(悪意や故意)ではないという認識を示しながら、「今度」受け取ってもらえる可能性へとつなぐためである(と思う)。そしてこの振る舞いは、明確に意識して(つまり目的を持って)行っているのではなく、瞬時の応答だ。

 推測でしかないが、もしかしたら違う文化圏の人からみたら、このやりとりは不可解であったり不愉快であったりするのかもしれない。「リサーチ不足の恵さんも悪いのに、なんでおじさんが謝らないといけないの。」というようなご意見もあろうことかと思う。恵さんにも瑕疵があるのに、恵さんの気持ちが最も大切にされなければならない理由はなんであるのかと問われたら、私はそれに答える自信が全くない。論理的な解決はほぼ不可能なような気がしてならない。ただ一つ言えるのは、「そのような問いがそもそも立ってこないのだ」という事実である。この事態をジャッジする裁判官の立場にはなれないからだ。何度も言うが、それはいい・悪いではない。なろうと思っても、なれないのだ。なぜなら私は「いま、ここ」を離れて、恵さんの母になり、恵さんになり、おじさんになり、その状況を生きてしまうからである。「相手の立場にたって考えよう」とか、「相手の気持ちを読む」という意識的な作業が介在しているのではなく(そういう状況ももちろんあるが)、同時に何人もの登場人物を経験してしまう、ということに近い。(※1)そして恵さんの気持ちや思いを大切にしたいとそちらに向かって行くのは、-つまりおじさんではなくて、恵さんへと向かっていくのは-私には「選びようがない」。様々な状況を鑑みての総合判断というよりは、おじさんへと向かっていく選択肢はそもそも存在していないのだ。そこに選ぶ自由などないような気がしている。もしかしたら意識のバックヤードには、「おじさんではなくて、恵さんである理由」(例えば恵さんは子どもだからだとか)が列挙されているのかもしれないが、それらをいちいち吟味して恵さんへと向かう力を働かせているわけではない。

 だから仮におじさんの立場にいたとしても、「恵さんが事前にリサーチしていてくれてたらよかったのに。」と内心思いながら、形式上「悪かったなぁ。」と謝る、というわけでは決してないのだ。客観的な事実と、自分の気持ちが合致しないまま「謝らせられている」のではない。むしろおじさんとしての私は恵さんとなって、「おじさん(自分)に差し向けられている善意の気持ち」をそのまま生き、それを「わがこと」として大切にしているから、「悪かったなぁ。」と応答するのである。「善意は、たとえ自分が望んでいないものであれ、受け取らなければならない。」というような道徳や教訓に基づいて行動しているのでは決してない。そうではなく、恵さんの気持ちを真ん中にして、その気持ちをやり取りするという「お話」をみんなで作っているのである。意図せずそのお話が着地できない状況になったときに一瞬「気まずく」なったわけだが、おそらくそれをソフトランディングさせるための努力をそれぞれにすることになることは想像に難くない。

 このように考えてみると、「空気」などと一般的に表現されているものは「みんなで作っているお話」のことなのだと言える。そして「空気が読めない」と言われてしまう状況は、状況を「いま、ここ」から眺めている傍観者から突然「お話」の中に投げ込まれ、何がメインテーマなのかも分からずに「一登場人物」としての振る舞いを強要されてしまうという、とても怖い状況なんだろうと思う。そもそもお話作りをしている当人たちにとって、お話(空気)は「読む」ものではない。そのメインテーマに引き寄せられ、やり取りをする中である方向をともに形作るという創造的な行為そのものである。空気を読まなければならないという状況は、すでにその創造的な共同行為に「参加できていない」ことを意味してしまう。

 それにしてもこの、「いま、ここ」をふわっと離れていってしまう力は一体何なのだろう?もちろんこの力は「あるか、ないか」という二元的なものではなく、「強弱」というスペクトラムだろうし、状況によって、また内的・外的環境によっても日々変化しているのだと思う。例えば緊張している時や、忙しくて余裕がない時には、「いま、ここ」から離れていきにくいように思う。でも無理やり分類するならば、この力が割と強い「ふわっと身軽なひと」と、よっこらしょと重い腰をあげないと離れていかない「居つきがちなひと」がいるような気がする。今の社会では身軽な人たちがすっとメインテーマをとらえてテンポよくスピーディーにお話を牽引していくことが多いし、またそうした振る舞いを求められてしまうので、お話に乗れない居つきがちな人は「空気が読めない」として排除されてしまう。もしかしたら「よっこらしょ」と腰があがる時間的ゆとりがあったら、ゆっくりお話に参加できるのかもしれない。(※2)

 ただ一方で、誤解を恐れずに言えば、そもそも「居つきがちなひと」は、身軽な人たちが作るお話に参加しないといけないのか?とも思うのだ。もちろん、身軽な人たちが一方的に居つきがちなひとたちを排除していいわけではない。けれども、「お話作り」とは違う、「居つきがちなひと」独自のやり方というのがあってもおかしくない。それが一体どんなスタイルなのか今の私には皆目見当がつかないのだが、「お話作り」に一方的に合わせろとしか言えない現状から、それぞれにとって自然で心地よいやり方が交錯するスタイルを模索できたらいいのに、と思う。

 ・・・と、いいことを言っているようだが、これはきれいごとではなく、シビアな、喫緊の課題なのではないかと私は思っている。なぜなら、お互いの傷つきが大きいからだ。「空気が読めない」と排除されてしまう人たちの傷つきもさることながら、でもその「空気が読めない」と認定されてしまう振る舞いによって傷つく人もいる、というのが事実である。どれだけそれが悪意ではないと分かっていても、そしてその振る舞いが自分の作る文化のルールを押し付けた結果引き出されているものであると「理性的に理解」できたとしても、その場で起こった傷つきを癒すことが難しい場合がある。自身のナチュラルなスタイルのルールに照らせば、その振る舞いは「私の気持ち」や「私が大切にしたい誰かの気持ち」を蔑ろにしていることを「意味」してしまうのだから。それはもう理性的な理解のスピードをはるかに超えて瞬時に起こる理解であるわけだし、「いま、ここ」を離れてその状況を生きるという身体に根ざした理解なのだから、なかなか理性での修正が難しい。あからさまではなくても、なんとなく「うまくいかなさ」を感じるというのは、「お話作り」をしている限り、「いま、ここ」を離れる自分と同じように「いま、ここ」を離れる他者の身体を想定してしまうことに起因しているような気がしてならない。また逆の立場においては、そもそもお話作りをしているつもりはなく、「いま、ここ」から見えた客観的事実を述べているにすぎないのに、他者の感情を害してしまったことだけが伝わってきて「うまくいかなさ」が残る、ということになっていないだろうか。

前後の記事はこちら↓↓↓
「気まずい」を考える(1)
「気まずい」を考える(3)

※1
このあたりは、メルロ=ポンティの(シュナイダーの症例に関する)以下のような記述から考えるようになった。

正常者の場合には、物語の本質といったものがあって、これがどんなはっきりした分析を伴わないでも、話しの進行について次第に解き放たれるのであり、またこれがやがて話しの再生産をも導くのである。彼にとって物語りとは、そのスタイルでそれと認められる或る人間的事象なのであり、主体は自分の直接的経験を超えて、話しによって指示された事象を生きる力をもっていればこそ、ここで<了解>もつくわけである。ところが患者にとっては、一般的に言って、直接的にあたえられたもの以外はどんなものも現前しない。他者の思想も、それの直接的体験を彼がもたない以上、彼にはけっして現前することはないであろう。彼にとって他者の言葉は、正常人におけるような、そのなかをみずから生きることもできるような一つの意味の透明な外皮ではなくて、一つ一つ判読してゆかねばならぬ標識である。患者にとっては、人間的事情とおなじく言葉もまた、一つの捉え直しまたは投射の動機ではなくて、単に一つの方法的解釈の機会にすぎない。対象とおなじく他者もまた彼に何ごとも<語る>ことがなく、彼にさし出される幻影は、なるほど分析によって獲得される知的意味づけの方は欠いていないにしても、共存によって獲得される始原的意味づけの方は欠いてしまっているのである。(知覚の現象学1 p224)

意識が「いま、ここ」を離れていきがちな人と「いま、ここ」に居つきがちな人との間でのコミュニケーションでズレやうまくいかなさが生まれるのは、メルロ=ポンティのいう「共存によって獲得される始原的意味づけ」を欠くことに由来しているような気がしている。

※2
「いま、ここ」を離れていく力、これはメルロ=ポンティのいう「指向弓」に関係がないだろうかと考えている。

意識の生活(認識生活、欲望の生活、あるいは知覚生活)には、一つの<指向弓>が張り渡されていて、これがわれわれのまわりに、われわれの過去や未来や人間的環境、物的状況、観念的状況、精神的状況を投射し、あるいはむしろ、われわれをこれらすべての関係のもとに状況づけられているのである。この指向弓こそが感官の統一を、感官と知性との統一を、また感受性と運動性との統一をつくるのであり、これこそが疾病の場合に<弛緩>するのである。(知覚の現象学1 p229)

「いま、ここ」をふわっと離れていく身軽な人は指向弓がぴんと張っていて、居つきがちな人は指向弓がゆるく張られている、というイメージを私は持っているがどうだろう。

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