「脳は回復する~高次脳機能障害からの脱出~」を推す1

 「好きすぎるやろ!」
 というツッコミが入りそうであるが、だって「されど愛しきお妻様」から間があかずにまた超・良書の「脳は回復する」が刊行されたんだもの。しょーがない・・・

 というわけで鈴木大介さんファンサイトのようになりつつあるこのnoteだが、今回からは「脳は回復する」を推したいと思う。

 ・・・でもね。

 正直なところ、「これ、めっちゃいいよ!」と晴れやかな気持ちで勧めることが自分にはできないと感じている。なんというか、むしろ、本書を読んで強烈に喚起されたのは「モーレツな反省」と「ほんとにすみません!!」という懺悔であるからだ。著者の鈴木大介さんも脳コワさん(注:脳機能に不自由を抱えた様々な当事者さんを本書ではこう命名している)になって初めて当事者の方々の苦しみを(のたうちまわりながら)理解して過去の自分の言動を後悔されていたが、私なんて(まがりなりにも支援者としてやってきた)過去だけでなく「リアルタイムの無知・無理解」を突き付けられた。これはなかなか、自分の愚かさゆえ引き受けるしかないのだが、辛く感じるものだった。ああでも、ごめんなさいすみませんと言いながらも、先に進むしかない。

 さて本書では脳コワさん当事者となった著者の様々な症状に、(おとなの発達障害さんの)お妻様がなんとも素敵なネーミングを授けている。「井上陽水」「架空アイドル現象」「夜泣き屋だいちゃん」「口パックン」「イラたんさん」「初恋玉」・・・一体それはなんだ!!??と意味不明ながらも興味をそそられるラインナップ。さすがお妻様、大好きです。というラブコールはさておき、医学的にはスルーされているけれども「困った」「苦しい」数々の症状をつぶさに観察して、それがどういう構造で成り立っているのかを記述するその仕方は「現象学的・・・♡」と近しく感じるし、その内側からの経験を知って「えええ!!そういうことだったんですか!」と驚きの連続だった。

 井上陽水現象も「なるほど!」と膝を打ったし(というか花粉症シーズンには私にも井上陽水がヘルメットとしてやってくる)、子どもの夜泣きに心病むまで苦しめられたと感じていた私は「夜泣き屋だいちゃん」の内実を知って、心の中でムスメに「すまん、苦しかったのは君だったんだね。」と平謝りするしかなかった。でも私が最も驚愕し、同時に慚愧の念に堪えなかったのは「イラたんさん(≒マイナス感情への拘泥現象)」の成り立ちだった。

 「イラたんさん」とは端的に言えば「気持ちの切り替え」ができない状態のことで、苛立ちや怒りを感じるできごとがあると、その記憶がずっとずっと頭の片隅に残り続けて、考えなくてもいい時にそのことを考えては苦しく憂鬱な気分になるのだという。驚くのは、病前の著者は「くよくよ思い悩む」ことのない性格で、嫌なことがあってもすぐに切り替えることができたし、忘れてしまう能天気さがあったということ。それが一転病後には、「巨大なマイナス感情は頭の中を一杯にし、しかもその不快な気もちを必死に切り替えようとしても、日中覚醒している間にずっとずっと思考の底流に流し損ねたウンコみたいにこびり付いている状態が続くことになってしまった」「流しても流しても、そのウンコは心の底に残って、苛立ちという悪臭を放ち続ける」とあり、「それは僕にとって、本当に未体験のことだった。」と著者自身が驚いている。

別に誰か嫌いになったところで、その人のことを考えなければいい。だが、なんということか、その「考えない」ができないのだ。四六時中、全然関係ない作業をしているときでも、あたかも想い人のようにその人のことを考えてしまう。その人に言われた傷つく言葉や失礼な態度が、何度も何度もプレイバック!そうやってその特定の人物の嫌な記憶を脳内で繰り返すことで、「ちょっと嫌な奴だな」程度だった相手が、いつしか「顔も見たくないほど大嫌い」になってしまうのだった。P137-p138

 「考えない」ができない・・・

 うわああああ!そういうことなの????
 それこそ私が今まで山ほど出会ってきた「考えない」ができなかったであろう人たちの姿が、脳内にプレイバック!ですよ。

 ・・・と懺悔が始まってしまうので、その前に。

 著者はこの「イラたんさん」の成り立ちを、高次脳機能障害にみられる「感情の脱抑制(感情のコントロールができない)」と「注意障害(注意を向けることのコントロールができない)」の合わせ技であるとしている。まず病後に感情のサイズそのものが大きくなってしまい、かつそれを自分でコントロールできない状態に置かれてしまった。また注意を向ける対象を自分で選べないし、(たまたま)注意が向かった対象に思考が集中してロックされてしまい、自分でそのロックを解除することもできなくなった。だから嫌な出来事があった時、それそのものへの不快感を強く感じるだけでなく、そのことに注意がロックされてえんえん考え続けてしまう、というわけなのだ。ここでの肝は、「その状態を自分でどうすることもできない(コントロールすることができない)」という、まさにその点にある。

自らの不機嫌や不快な気分を自力で払拭できないことは、こんなにも「つらい」ことなのだ。(中略)その不快の要因を消したい、またはその不快が見えないどこかに逃げたいと願っても、その不快は自分の心の底にあるわけで逃げ様がないのだ。これは本当につらい。そして、「不機嫌な人」と「つらい人」がイコールで繋がる存在だということを、僕は当事者となって初めて知った。P147-p148

 なんてこった。

 「なんでそんなに根に持つんだろう・・・」とウンザリした自分。
 「なんでネガティブなことばっかり考えてるんだろう、いいこと何もないのに。」と呆れた自分。
 「しつこいなぁ。」と嫌がりさえした自分。

 そんな私を全員集合させて説教したいくらいの気持ちにかられた。誰も望んで根に持ったり、ネガティブ思考にはまったり、しつこくしてるわけじゃないんだよ。やめたくてもやめられないし、そもそも生まれた時からそのようでしかあれない人たちにとっては、「やめる」も何も、そういう状態しか知らないのだ。

 なんてこった。再び。

 ナチュラルボーン思考ロック傾向の方々にとって「気持ちを切り替えて、楽しいことを考えようよ。」は何の役にも立たない有害なだけのアドバイスなんだな。そして「そんなふうに切り替えられるヒトがいる」という事実のほうが、驚愕なんだろうと思う。そのような離れ業ができるなんてにわかには信じがたいから、「何をたわけたことを!」と悪意にも受け取ってしまうだろう。私が「『考えない』ができない」を(実感として)理解できないように、「『考えない』ができる」ってどうやって?どんなふうに?意味不明だよ!と思っておられる方々がいるのだ。

 私だってどんなふうにやってるのか分からない。
 知らん間に忘れちゃうことのほうが多いし。
 ナチュラルボーン能天気のからくりって、そういうことなんだろう。

 あっさりしてる、とか、ねちっこい、とか。
 粘り強い、とか、飽きっぽいとか。
 怒りっぽいとか、朗らかとか。
 「性格」と言われているようなものは、実のところ注意や抑制なんていう「脳の機能」にだいぶ規定されているんだと思うと、なんだか複雑な気持ちになる。

 ところで著者を苦しめたこの「イラたんさん」は、ある日突然いなくなる。とっても嫌いな人たちのことが脳裏に浮かんでその都度イライラしていたのだが、ある時著者が故意に彼らのことを思い浮かべてみてもイライラしなくなっていることに気づく。

正直言って、俺はまだあんたらのこと嫌いだけど、嫌いなのと「いま怒ったりイライラしてる」のは違うってことを、久々に思い出したよ。俺、いまは特に君らのこと怒ってない。つうか、あんたらのことなど、別にどうでもいいわ!P146

 あぁ、もしかしてこういうこと?
 私にだって好き・嫌いはある。とりわけエラそうなおじさんは嫌いだ。具体的に顔も思い浮かぶ。「嫌いなひと」ボックスが脳内にあるとすれば、そこの中には何人もの人が入っている。でも例えばそのボックスの中から1人を取り出してきてみても、「やっぱり嫌いやわ。近寄りません。」以上何の感慨もわいてこない。あれこれ嫌な目にあっていたことも結構思いだせるが、それはすでに「過去のこと」。もちろん数日前の出来事だったら、もしかしたら「あの時の、あの感情」が蘇ってハラワタ煮えくり返るのかもしれない。いやでも、その時の「ぐわー」っていう感じは、その時に感じたまま蘇るってそうないかも。「嫌いなひと」ボックスに押しやってしまったら、「過去」というラベルがついて「今」とは切り離されてしまうような気がする。だけど思考ロック状態の人には、そんなボックスがないのかもしれない。Always いま。出来事が過去になっていかずに絶えず今が再生産されるって、やはりしんどいだろうと思う。

 私は、何にも分かっちゃいなかった。
 ていうかたぶん、今も分かっちゃいないのだろう。

脳は回復する 高次脳機能障害からの脱出, 鈴木大介, 新潮新書, 2018.

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