「されど愛しきお妻様」を推す理由3

 ところで本書にトキメいてしまうのは、お妻様の存在が大きい。なにしろ変人のお妻様の魅力が半端ない。数々の名言(珍言?)に、ハート鷲づかみ。

 いやもちろん、いいことばっかりではなくて大変なこともセットで描かれているのだが。でもその唯一無二の変人っぷりをこそ愛している、著者の眼差しにもぐっときてしまうのだ。だから「お妻様を治療しない理由」を読んだときに思わずうるっともしたし、「そりゃそうだ。」と胸にすとんと落ちた。著者の鈴木大介さんは、お妻様を治療しない理由として「発達障害も含めたお妻様のパーソナリティが好きだから」とし、以下のように記述されていた。

 お妻様が巨大な脳腫瘍の摘出手術に挑むとき、僕が心の底から恐怖したのは、お妻様の特異なパーソナリティが失われたり変容してしまうことだった。むしろ僕は変人のお妻様のままでいることを望んだし、お妻様の死の予感に怯える中で、お妻様がどこにでもいそうな凡庸なパーソナリティの持ち主だったらそこまで巨大な喪失ではなかったろうにと、苦しみ続けた。彼女が精神科処方薬を断薬し、戻ってきた「元気な変人」の彼女を見て、心の底から嬉しいと思った。

 号泣。(←私が、ですよ。再び。)

 結局一緒にいたいのは、「家事をバリバリとこなすひと」でも「フツーのひと」でもなくて、「変な」あなた、「フツーじゃない」あなた、なんだなぁ・・・あなたの「変な」ところ、「フツーじゃない」ところに、わたしにとっての(あなたじゃないですよ)意味があるのだということ。

 程度の差はあるかもしれないし、もしかしたら誤解を招いてしまうかもしれないが、私も精神科の患者さんたちの非凡な在りように「それが大好きだ!」と思う瞬間を多々経験していた。色々と(双方にとって)困ることもたくさんあったし、キレイごとではないのだが・・・いや、「キレイごと」じゃないからこそなのかもしれない。コラー!とか、もう!!!とか色々思ったり言ったりしている中でも、「うわあ!信じられん!」「ミラクル!」「キュン」と心が動き、そのたびに「どうぞそのままで。」と心の中で呟いている自分がいた。言葉にすると一気につまらなくなるが、予定調和やら規範があっけなく崩れていくとか、予想や想像をぶっちぎるようなことが起こったりとか、普段おとなとして包み隠している何かが漏れ出していくとかいう諸々全てを、「はああ??」と思いながらも愛でずにいられない、そんな感じ。それは正直、子どもに対しても同様のことを思う時がある。記事「サンタさんがいる世界はたまらない」でも書いたが、おとなが何かと引き換えに手離してきた何がしかがまだ生き生きと存在している世界をそこに垣間見るからかもしれない。

 でも私が一方的に愛すその非凡さは、当然のことながらご本人の困難さや苦しみと裏腹でもある。「常識を覆す」その振る舞いは、「常識を貴ぶ」ひとたちによって排除されてもきたし、そのことでご本人は傷つき苦しんできた(いる)。ご本人は「もっと普通にできたら」と切望しているかもしれないし、自分の非凡さを恨んだり呪っているかもしれないのだ。だから私が「どうぞそのままで。」なんて、簡単に言ったり思ったりしてはいけないんじゃなかろうか、そんな気持ちも抱えていた。著者の鈴木大介さんも、下記のように同様の思いを吐露されていた。

お妻様は今のままのパーソナリティでいてほしい。そう思うのが僕の本音なのだ。だがこれは一方で、やはり僕の横暴にも感じる気持ちが、どうしても拭えなかった。なぜならそれは、もしかしたら治療を受ければお妻様が経験したかもしれない未来や新しい世界や挑戦を、得たかもしれない発達を、僕の勝手で奪ってしまっているとも言えるからだ。僕自身が脳に不自由を抱えた当事者になり、その視点からお妻様を見るようになってから、ずっとそんな考えに悩んできた。P200

 全く一緒です!と叫びたい衝動にかられた。「そういうあり方もいいよね。私はそれ好きです。」ということ(言葉は悪いが他人事)と、そういうあり方をしか生きられない、その生を引き受けざるをえないこと(自分ごと)との間には、おおきな、本当におおきな隔たりがある。もし現状何かを犠牲にしているのであれば、その何かを犠牲にしないで生きることのできる可能性へと開かれているべきじゃないのか。だから、いいじゃんそのままで、なんて簡単に言えない。

 これに対して著者がたどり着いた一つの結論は、「不自由を障害にするのは環境」だという考え方だった。

 自分では変えることのできない特性、それによって「できない」こともあるし、「できる」ようになるためには人より激しく努力しないといけなかったりする。そこで「できない」と困ったり、「できる」ようになるために消耗しすぎてダウンしなくちゃいけないようでは、その「特性」は「障害」になる。でも、できなくてもOKだったり、他者を頼れたり、あるいは工夫された環境で楽に「できる」に到達できるようであれば、「特性」は困った障害にはならない。そう、その人がそのままでいて困らない環境であれば、その人を「社会」の基準に合わせて「治療」する必要は、本当のところないのだろう。

 もちろん、「いや誰がなんと言おうと、私は家事をバリバリこなせるようになりたいんです。」「普通に働けるようにならないと、生きていけないんです。」と当人が思うこともまた、自由である。そういった場合、例えば注意障害に照準を合わせた投薬治療や訓練を受けられることが保障されてしかるべきだと思っている。ただ、誤解を招く恐れがあるかもしれないが、その場合も「当人にそう思わせている環境≒それを望んでいるのは本当は誰なのか」を考慮に入れる必要があると思う。社会が、周囲が、本人の自然に反することを(無言のうちに)強要していることもあるからだ。

 「障害」を医療的に、あるいは社会的に認定されているかどうかにかかわらず、全ての人がそれぞれの身体的(脳的を含めて)特性を携えて生きている。「心がけ」という内部からの矯正によって、あるいは社会的なプレッシャーという外部からの圧力によって、一時的にはぴしっと(様々な要望に合わせて)形を整えることに成功したとしても、「ほんらい」的なところは早々変えられない。そこのところを人類の共通認識にすることができたら、「みんなやればできるんだから頑張れ。→できないのは頑張っていないからだ。(怠け者認定)orできないのは病気だから、障害だから治そう。(矯正)」という息苦しいスパイラルから脱出することができるのに、と思う。

 私は、同時に複数のものごとを覚えておくことが苦手である。とりわけ耳からの情報は、とりこぼしやすい。かつての職場で心理学を学ぶ学生さんのトレーニング用として戯れにWAIS(知能検査)を受けたことがあったが、そのまんまの結果が出てショックを受けるのと同時に「やっぱり」という安堵感も覚えたものだった。だって職場で「〇さんと、×さんと、△さんにお伝えください。」と言われると、△さんの名前を思い出せなくて困ること頻回なのである。なんでそんなこともできないのだと自分の無能ぶりが恥ずかしかったし、なんとかそこを補おうとメモ魔となって必死だった。でもWAISの結果を受けて私が思ったのは、「なーんだ。出来ないのは私のせいじゃないんだ。」ということだった。いや、「できない」の根本原因を特性として携えているのも「わたし」なんだから「わたしのせいじゃない」というのはおかしな話で、じゃあ一体誰のせいなんだって話なのだが・・・まぁ言ってみれば「かみさま」のせい、みたいなものだ。だってそもそもそれらが「できない」という基本スペックの人間として生まれ落ちたんだからね。私それ望んで引き受けたわけちゃうし。「はい、あなたそのスペックでやってってね。」って振り分けられただけなんだもの。そう考えたら、なんとなく「しょうがない」と思えたし、そりゃがっかりするけれども、必要以上に自分を責めたりする必要がなくなって楽になった。そして本当にありがたいことに―ここが恐らく一番大切なことなのだと思うのだが―、一緒に働く同僚は私に対して「記憶力の悪い仕事のデキナイやつ」認定するのではなく、「〇さんと、×さんと、△さんと・・(覚えるの)大丈夫かな?(復唱)」と確認してくれたり、折り返し「誰だったっけ?」と確認する私を鬱陶しがらずにいてくれた。だから私のイマイチな記憶力は、この恵まれた環境で障害化せずにいられたのである。これがもし、「何度も確認しないでよね!」と冷たく言い放つ人がいるような職場だったり、忙しすぎて確認する間さえないような職場だったら、途端に私の記憶力は障害化していたに違いない。

 本当にありがたい、と思う。

 ただもし「記憶力がよくなるスペシャルな何か」が選択肢としてあるならば、試してみたいという気持ちはゼロではない。でもそれは「バリバリできる人になりたい」というよりは、「記憶力がいいってどんな感じだろう」っていう好奇心からである。どうしてもバリバリやらないといけない環境にいないということに、改めて感謝したい。

※「されど愛しきお妻様 『大人の発達障害』の妻と『脳が壊れた』僕の18年間」
鈴木大介著, 講談社, 2018.

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