「受験したらいいことあるの?」に答えられない
小学校も高学年になってくると、周囲のお友だちから中学受験の話をちらほらと聞いてくるらしい。「じゅけんって何?」から始まり、「塾って何するの?」「なんで受験ってするの?」「受験したらいいことあるの?」と子どもから1年くらいかけて段階的に質問された。まぁ「受験」とは?「塾」とは?というのはシステムの話なのでありのままを話せばいいのであるが、なんで受験するのか?いいことあるのか?という問いへの答えには窮してしまった。みなさん、どんなふうに答えているのでしょうか。
ここで一言断っておくと、私自身は受験に対して特に何も思っていない。どちらかというと何も考えずにボンヤリしてしまっていて、調べたりするのに重い腰も上がらず「このまま公立でいいよね」と流されているだけ・・といった感じである。子どもから受験について尋ねられると、ハッとしてあれこれ考えなくもないのだが、能動的なアクションにはなかなかつながらない。
なんでかしらと自分でも思うのだが、我が子の様子が私をそうさせているような気がしないでもない。こう言っちゃなんだけれども、わが娘あんまりこれという特徴がないのだ。・・・こう書いてしまうと語弊があるなぁ・・・ネガティブな意味で言っているのでは、決してない。親バカなようだけれども、いろんなことに関心を持って取り組む力はバツグンだと思っているし、他者を歓待するオープンマインド選手権に出たら見事グランプリに輝くんじゃないかと半ば本気で思っている。でも運動は苦手なほうだし(だけど嫌がったりもしない)、勉強もサクサクできるってタイプでもない(だけど嫌いではない)。ものすごく何かを偏愛したり、一つのことに熱中したりもしない。なので今現在の時点で、「それ(スポーツ・勉強・特定の何か)を極めるために、こういう学校がいいんじゃない?」「それのために、今の時間の大半を勉強に費やせ」と言えないのだ。また「ユニークすぎて、このままだと心配だわ・・」ということもなく、むしろ適応的に振る舞いたがるので、親としてはやや物足りなさを感じるくらいである。だから「このユニークさでもやっていけるような校風の学校を!」という切実さも、今のところない。
私自身は中学受験を経験しているのだが、塾通いは楽しい思い出として残っている。勉強は好きだったし、苦にならなかった。塾へ行けば「上には上がいる」と思い知らされるけれども、本人としては「やった分くらいは報われる」ものとして経験されていた。ほかに激しく好きなものがあったわけでもないし、「勉強を頑張る」が当時の私にとって穏当な選択肢だったんじゃないかと思う。一方弟は今から思うと相当凸凹のある人で、勉強はからっきし出来なかった。母は教育ママだったので、そんな弟にも無理矢理勉強を頑張らせていたが、母の思うような結果にはならなかった。
親という立場になって色々な子どもたちと接するようになってみると、勉強ができる子・好きな子は放っておいてもそれに関心を持って取り組んでいる。スポーツが得意な子もいれば、絵を描くのが上手な子、楽器が上手な子、手先が器用な子、みんなそれぞれ「ナチュラルボーンそういう子」、である。もちろん上達しようと思ったら何だって努力が必要なのだけれども、その努力の土台となる「好き・得意」は予め持って生まれてきているとしか言いようがない。それを無視して「とにかく勉強!」とは、やっぱり思えない。振り返ってみると弟はやんちゃで明るい活発な子どもだったが、その天性の可愛さは受験に次ぐ受験でしぼんでしまったように思う。おまけに向いていない勉強をさせられて成果も出せないなんて、あまりのことに胸がしめつけられるような思いになる時がある。あの愛されキャラをそのまま育み、その力で何か創造的なことをしていたかもしれないと思うことがままある。
勉強が割と好きだし、得意だ、ということであれば「その道でがんばれ!」「受験してみる?」と思えるのだが、我が子を見ていると「そこまでじゃないよなぁ・・」という感じ。むしろ「気の向くままに、好きなことあれこれやっとんな」と思ってしまう。もし受験するということを今選択すると、「好きなことあれこれ」の時間が全て「勉強」に置き換わってしまうのではないかと不安にもなる。誤解のないように言っておくが、それが全ての子どもにとって憂慮すべき事態である、などと言いたいのではない。あくまでも我が子の場合は、という話である。そして「勉強」を軽視しているわけでももちろんない。基礎的な学力を養うことは、その後の人生の「自由」を左右すると私は思っている(※1)。ただ結局「受験するか・しないか」は、限られた「いま」の時間をどう使うかということ、何に優先的にリソースをさくのか、という問題に直結する。もしかしたら私は、彼女から「好きなことあれこれ」に出会う可能性を奪ってしまうことに躊躇しているのかもしれない。私が「受験する」という選択肢を提示することでその道を拓いてしまい、それ以外の道を閉ざしてしまうことを恐怖しているのかもしれない。でもそんなものは欺瞞だということも、分かっているのだ。人が発達し、成長するということはそういうことなのだから。よく言われるたとえでいえば、赤ちゃんは何語でも話せるようになる可能性を持ってこの世に誕生する。でも日本語を母語として話す親と出あうことで、たくさんある可能性はまずそこで捨て去られ、「日本語」という一つの言語だけが残される。あらゆる可能性を同時に生きることはできない。常に何かを選び、あるいは何かを選ばされる。私が他者のそんな取捨選択にコミットしたくないと思ったところで、重要他者としての親はそこにコミットしないわけには当然いかないのである。いや、「コミットする」なんていう能動的なアクションをとらなくても、「日本語しか話せない」状態で彼女と生活するだけでじゅうぶん取捨選択に関与してしまっているのである。
・・・とここまで書いてきて、確かに「受験したらいいことあるの?」に私は明確な答えを提示することはできないが、そのかわりに「一緒に考える」ことはできるんだな、と思った。もう小学5年生ですもの。彼女自身が自分の時間をどのように使うのか、考えたらいいのだろう。もちろん「自分で考えろ」と放りだすのではなくて、私が親という立場で考えたり懸念している上記のような点について正直に伝えて、一緒に考えるのである。「彼女の行く末を私が決めてしまいたくない」とオロオロしているのは、さも子どもを「個人として尊重している」体ではあるが、実際には子どもを「決める主体」として認めていない裏返しである。年齢なり、発達段階なり、その子ども自身の段階に応じた「決める力」を信頼して、まずは話し合ってみることが大事なんだろうと思う。
それに加えて、「選択を間違える」ことだってあるということを、子どもにじゅうじゅう伝えたいと思う。というより、「やってみなきゃわからん」ということはいっぱいある。一回決めてしまったらもう取り返しがつかない、なんて絶対に嫌だと私は思う。たとえ何かを始めてみて迷い、「やっぱり辞めたい」と言いだした時に、「有言実行!」「男に二言はない」的なマッチョ攻撃を繰り出さないようにしたい。つい自分のことは棚に上げて、「一度自分で決めたことなんだから頑張りなさい。」なんて言ってしまいそうだが、決めた時の自分と、今の自分が考えることが違う、なんて当たり前のことだ。その時はまた、話し合ったらいい。
そんなわけで、「受験」についてまた尋ねられたら子どもと一緒に考えてみようと思う。・・・これまでの私の体たらくぶりを見て、「もうええわー」と思っている可能性大だけれども。
※1
ここでいう「自由」とは、職業選択の自由というようなものではない。自分の頭で考えて、自分の言葉で伝えることができるという「思考の自由」みたいなものである。基礎的な学力が大切なのは、そうした「思考の自由」の土台になるからだと私は考えている。
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