現象学の最後に

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 村上春樹は「真実」についてどう考えているだろうか?『ねじまき鳥クロニクル』では、結局電話してきた謎の女がクミコだったのかどうかは明らかにされない。『海辺のカフカ』でも、佐伯さんの過去は灰となって闇に葬りさられてしまうし、その「真実」を唯一知っていたナカタさんも死んでしまう。だからこそ村上春樹の小説は推理小説ではないわけだ。では彼にとって「真実」とは一体何なのだろうか。

 哲学はその初めから何らかの形で究極の「真理」にアプローチしてきた。例えばプラトンには真理とどのようなものかという問いがあったし、真理にはどのようにしたら到達できるのか、といった問いもあったわけだ。カントだとそこに「人間にとっての」という問いが加わる。というのも人間的な認識能力としての理性は錯覚を導くからである。ある意味で、だからこそ第三批判である『判断力批判』があるわけだ。そこでは理性(自由)と感性(自然)が和解するのである。 

 その中でリシールの問いは最初から「真理はあるのか」という問いであった。哲学では最も重んじられてきた理性とが存在とか言ったものは、それはそれで巨大な一つの制度を構築している。つまり存在とか理念的なものを頂点として構築された制度である。リシールの答えは、少なくともそういった一義性を帯びたもの(存在)は現象学的な真理にはなり得ないというものだろう。だからこそ、現象学の存在論に対する優位がある(レヴィナスもそう考えたように、現象学は存在論ではない)。超越論的間事実性や現象学的複数性をリシールが強調するのはそういった反存在論的な意識があるからである。それだからこそ彼は仮象[apparence, Schein]や空想[phantasia]に注目するのである。なぜならその戯れの中でこそ存在論的な真理(一義性、完全性、独立性などを帯びた、すなわち一神教の神のような真理)が生成するからである。しかしそれなら現象学的な真理とは一体?人はそう問い続けるだろう。しかしそう問い続けることに果たしてどんな意味があるだろうか。 

 ごくごく普通の意味で、現象学的な真理がなんなのかについては明確に答えることはできない。というのも、そういう仮象の真理が現象化していたとしても、そこには一般的な意味でも感覚も概念も理念もないからである。その現象は無垢であり無言であり無目的なのである。これはある思考や行動がいつどこで生まれどこに消え去っていくのかを僕らは知らないということである。何かがそれと知らずに生じ、それと知らずに消えていく。それでも現象があると言えるのは、それが現象学だからである。現象学も世界を理解するための一つの方法に過ぎない。つまり無があるといったときに、そのことの意味をうまく理解しようとする一つの方法に過ぎない。リシールもこういったことに関してはひどくプラトン的であった。現象学を理解できるのは才能のある一部の人間だけであるし、その理解の仕方が矛盾を孕んだ表現だったとしてもしょうがないのである。 

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 村上は真実についてどう考えているのだろうか?彼が真実を示さないのはそういったことが人間の生にとって重要なものではないということなのだろうか。あるいは、そんな真実なんてあるわけがないということを言いたいのだろうか。あるいは真実を求めることの無意味さを訴えたいのだろうか。 

 それは私には分からない。しかし登場人物たちはそういった真実がなくとも生きている。佐伯さんはお母さんだったのだろうか?それを知ることが決してないにしても、カフカ少年はタフに生きていく。電話の女の正体は?それが分からなくても僕はクミコだと思い、最後にクミコを待つ決心をする。彼らはフィクションを生きている。しかし、彼らはフィクションの世界しかない中でフィクションを生きているのだ(我々が生きる条件に「真実」なんて必要だろうか?)。 

 実際生きるということは現象学的にはそういうことなのだ。人生においては重大に扱わなければならないとされるいくつかのことがある。責任、良心、自由、死、決断、人間関係、理想、情熱、、、こういったことは人間が関心を払わなければならないとされるいくつかのことだ。なるほどそうだ、誰も責任を感じない社会は崩壊するだろうし、自由のない人生を送りたい人間などいないだろう。生きることは肯定されるべきだし、死は厭われるべきだ。だからこそ生の中には特権化されるべき価値があり、凹凸のある生がそこから生じてくることにもなるのだ。しかしながら、それらの価値は広い意味でのフィクションに過ぎない。生それ自体が、すでにある意味でフィクションなのである。  

 さらに現象学的にいえば、メタファーにならないものなんて一つもないのだ。図書館がメタファーに見えないのは、そこに極めて強固な絆があるからに過ぎない。しかしながら強固な絆があってこその生でもある。この強固な絆こそが生を(ある意味で)生き生きとさせる。頑強で強靭な信念達。そして脆く溶けてしまいそうな信念達。生きるとはそういうことの集合に過ぎないのだ。制度の凹凸を生きることなのだ・・・・・・・

  

 

 

 


 

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