アヴァンギャルドの歴史性

 アヴァンギャルド=前衛は、皮肉にも、時間的な歴史性を背負わなければならないという運命を背負っている。avant = 前 は必然的に après = 後の前であり、後ろがあるからこそ前もあるというそういった相関性の中で、その時代の価値観や雰囲気に対抗することが「前衛」の意義である。「①前衛的な作家は、一般的な作家がその存在に気付く前に、一早く“敵”を“敵”として発見する」(「前衛(アヴァンギャルド)ってなに?」)というのはおそらくそういうことなのだ。その意味で「前衛」は美に対する純粋な希求であるというよりも、腐敗した文化に対する知的な反逆であり、要は反復や転覆といったものが主たる狙いなのだ。もちろんそこには啓蒙的な意味合いもあるわけだが。

 ゴダール、トリュフォー、トリスタン・ツェラ、アンドレ・ブルトンらは総じて知的な作家である。『シュールレアリスム宣言』や『カイエ・デュ・シネマ』への批評文、『未来派独立宣言』『ムッシュー・アンチピリンの宣言』妙に知的な活動を行うわけである。こうしたフランス的とも括られなくもない活動を通して、彼らは彼らの同時代に敵を発見した。しかし、こういったことは(広く映画も含めた)芸術に必然的な条件というわけではないだろう。

 「前衛(アヴァンギャルド)ってなに?」に示された1、2、3、4の定義は、実のところ、ある意味で哲学にも当てはまる。というのも彼らを歴史を背負って哲学をしなければならないからである。過去の哲学=敵を否定しない哲学など存在しない。哲学の歴史が存在する以上、哲学者には敵が必要であるし、それを乗り越えることによって、自らの哲学を打ち立てるのである。カントは当時の大陸合理論(クリスチャン・ヴォルフ)やイギリス経験を配合し超越論哲学を打ち立てた。『純粋理性批判』でもさまざまな批判を受け、『単なる理性の限界内での宗教』では発禁処分を食らった。それを否定して登場したのがヘーゲルであるし、またそのヘーゲルを否定したのがショーペンハウアーであった。ショーペンハウアーの影響を受けたニーチェはキリスト教的な価値観(大衆的価値観)を批判した(その意味で最も前衛的な哲学者である)。哲学が芸術の一つであるならば(メルロ=ポンティは「哲学は、芸術と同じく、不断の辛苦である」『知覚の現象学』と語っている)、彼らもまた何らかの形で前衛的なのである。

 しかし、アヴァンギャルドと哲学には決定的な違いも見受けられる。定義をみてみればわかるように、まずもってアヴァンギャルドには「敵の指名」が重要なのだ。つまり否定がまずあってこそのアヴァンギャルドであり、そのあとに価値の創造へと繋がるのである。そう考えてみると、哲学の場合には、構造が同じでも力点が異なるように思われる。哲学にとって最も重要なのは、それはある種の体系を示すことでもあるのだから、新たな価値の創造であった。つまり肯定的な体系の提示がまずあってそれをもとに同時代の価値を否定するのである。積極的な否定か積極的な肯定か、どちらを重要視するかで態度が異なってくるわけである。

 もちろんアヴァンギャルドが「新たな価値を創造」しなかったわけではない。現に

「おいおい、うちらフランスの高級なゲージュツ映画より、アメリカの低俗なサスペンス映画の方が、遥かにおもしろいし芸術的じゃないか?いやいや絶対そうだよ!でもでも、これって僕の勘違い?」
妄想が芽生えた瞬間である。彼らはその妄想を少しづつ持ち寄り、やがて確信を深め、思い切ってその成果を発表することにした。

脱輪「前衛(アヴァンギャルド)ってなに?」

ということをゴダールやトリュフォーはしているわけである。しかしながら、ここでの「アメリアの低俗なサスペンス映画」はアメリカでは受け入れられていたわけで、彼らが行なったのは「新たな価値の創造」というよりは「別の価値の提供」である。

 DADAになると「「まじめも冗談も、新しさも永遠も、原則も方法も、ぜ〜んぶ一緒で無意味なんだよ〜ん!」というごちゃまぜの戦略」をとることで価値の無意味を主張し、シュールレアリスムの親玉アンドレ・ブルトンは、それがいきすぎた結果、最終的に大静粛を行って自らを破滅寸前まで追いやった。

 その意味で脱輪氏の表現である「生き方の致命的なミス」は的を得ているように思われる。つまり、否定(=ミス)が力の根源なのだ。 

 このようなミスは破壊衝動にも似ている。過去の否定として出される芸術は、否定によって自らを浮き上がらせているように見えて、実は何も示してない。というのも、そこには肯定されるべきものが何もないからである。一体何をしめすべきなのだろうか。そこまで示すべき美があるのだろうか。それも簡単に否定されるのではないだろうか。あるのは自虐でしかないのではないだろうか。これがアンドレ・ブルトンが落ちいった袋小路である。

 破壊は破壊するものなくしてはできない。前衛もそうだ。大いなる敵が必要である。しかもセンセーショナルな敵が必要なのだ。それを敵とすることで皆を震撼させるような敵、それこそが大衆である。大衆を問いに付すような時代がやっときたのだ。その意味で前衛は非常に歴史的な一現象であるとあったといえる。実際、ゴダール、トリュフォー、DADA、アンドレ・ブルトンが比較的同じ年代の同じ場所(フランス、第一次世界大戦後から1960年代まで)に固まっているのは、そういうことだと捉えることもできる。つまりその頃になってようやく大衆を「敵」として指名しても良いという環境が整ってくるのだ(ニーチェにしたって19世紀後半の人である)。

 哲学はいつでも「歴史」を作ってきた。実存の時代がきて現象学が隆盛し、そして構造主義的な考え方がきたかと思うとすぐにポスト構造主義になりそして現代思想と呼ばれる状況になっている。なるほど、哲学も普遍的な価値観や見方、体系をしめすというよりもむしろ、現実に即してその場に真理らしいものを提示していくようなものに徐々に変貌している。しかし彼らが歴史をいまだに(かろうじで)作り続けていられるのは、哲学に幸か不幸か備わるその体系への情熱だろう(仮に体系そのものがはったりでしかないにしても!)。

 前衛はどうなのだろうか?こちらも瞬く間に世界中に拡散し、各国で前衛ブームが訪れたようである。しかし前衛の条件は、他ではない、大きなる敵なのだ。敵が強大であることがまず持って重要なのだ。そうであるならば、前衛が登場した時代にそういった敵となりうるような大衆というのも登場したということなる。現代は多様の時代だと言われている。様々な価値観が共存して、それらを互いに差なく認め合わなければならない。他方で秩序化の時代でもある(千葉雅也『現代思想入門』)。一見すると矛盾するような二つの制度が貫いている複雑な時代である。大衆という価値はそこでは強くない。その最中では前衛は(そして古典的な哲学も)時代遅れである。

 前衛が否定に貫かれているとしたなれば、文化的な運動としてはすでに歴史の異一部となっているだろう。前衛の時代が終わった今(というのも前衛そのものが大衆化したからである)、一体前衛的なものに何が残されているのか。つまり何を生じさせることができるのか。しかし「前衛とは、結果ではなく原因のことであり、原因とはすなわち、その作家を作家たらしめる生き方の致命的なミスである」としたならば、依然として何かが残っている。というのも、まさにそれは「生き方」であって、それが致命的なミスであろうと、おそらくその作家にとっては必然的なミスだっただろうからである。敵はもはや「妄想」以上にはなりえないのかもしれない。しかし「生き方の致命的なミス」を変えることは何人たりともできることはないだろう。

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