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会社を辞めたハナシ


2022年1月に新卒入社した会社を、2024年1月末に退社しました。




会社との出会い

この会社を知ったのは今から8年前、18歳の時。

アメリカに留学していた時に、日本から遊びに来ていた友達から教えてもらった。その友達は確かベトナムで学生起業をした子で、シリコンバレーに視察に来ていたのかな。この会社知ってる?と聞かれ、知らないと答えた。

それから数ヶ月後、留学友達のお兄ちゃんが「ロシア語話せる人探してる、この人と会ってみて」と。私は高校生の時ロシアに留学していた時期があったので当時はロシア語が話せた。(今はもうスパシーバくらい、、)

会ってみたら、学生起業した友達が教えてくれた会社だった。



インターンのこと

あれよあれよとインターンすることが決まって、留学1年目の夏はインターン漬けだった。出勤1日目、会社に着くと誰も居なくて電話してみると「来週日本からインターン生が来るからマネジメントよろしく」と。

業務もよく分かっていないのに、任された(笑)

スタートアップ企業のリサーチをしたり、受託のプレゼン資料を作ったり、ミートアップを企画したりと、留学1年目にシリコンバレーでインターンが経験出来たのは良い経験だった。

夏以降は学校が忙しくてインターンはしてなかったかな。(記憶が曖昧)



有頂天からどん底へ

当時シリコンバレーに居たんだけれども、アートに触れたくてLAへ。

留学3年目、とっても充実していて「もう私一生アメリカで生きていく!」と両親に電話で話した2週間後、動悸で目が覚めて目の前が真っ黒に。

燃え尽き症候群かな、キャパオーバーかな、いろんな原因があったけどそこからどん底へ。

ひとりで生きていくことが出来なくなってしまって、日本へ帰ることを決めました。

決まってた大学への編入も白紙に。

「卒業式には家族をアメリカに招待する!」と決めていた私は、大学卒業が叶わず帰国する自分が本当に情けなかった



あたらしい気づき

帰国してから半年間実家に

小さい頃から地元から離れたいの一心だったから地元に良い印象はあまりなかった

でもなにか違う

早起きして海に朝陽見に行って、畑でネギ採ってお味噌汁作って、おばあちゃんの畑仕事手伝って、夜ご飯の支度をして家族と食べる

この生きてるって実感できる暮らしが本当に心地よくて、いっぱいの幸せを感じた

ずっとこれがいい

と、心から思った



プレッシャーと焦り

けど違う。

「ちゃんと生きなきゃ」
「お金をかけて育ててくれたから」
「長女だから」
「うちは教師家系だから」

言われたこともない、自分で勝手に作り出した家族からの大きなプレッシャーに何度も押し殺された

ちゃんと大学卒業して、ちゃんと就職して自立しなきゃ


それから大学に編入して、なんとか卒業した。

「就職」にとても悩んだ。グラフィックデザインか写真がやりたいけど、働きたい企業の見つけ方がわからない。そもそも新卒でとってくれるところなんてあるの?就活の仕方もわからない。何がわからないかわからなくて、相談する人もいなかった。あの頃の私は恥ずかしい程、社会に関して本当に無知だった。


入社

卒業する2ヶ月前くらいに、たまたま(冒頭に出てきた)インターンをしていた会社の代表と再会する機会があった

私は将来が不安でどうしようもなかったので、「働かせてください」と頭を下げてお願いをした

二つ返事で「いいよ」と

やっと安心出来た



自由のコワさ

ここからがやっと、会社のオハナシ。

インターンしてた頃とは全く違うメンバー、事業内容、会社の体制

でも根本的なことは変わってなかった

とてつもなく自由

これが、この会社のとても良くてとても怖いところ(笑)

もちろんマニュアルなんて無いし、指示も無いし、説明も無い

共有されてるドライブから現状把握して自分が出来る事を探る
他のメンバーのミーティングや商談に参加させてもらってやり方を探る

隔週で研修をしていたので、まずはその集客を。facebookアカウントを作って興味のありそうな人に片っ端からDMを。

もちろん、全く成果が出ない

インターンは他の会社でも5社くらいしたけど、会社に正社員で入るのは初めてだったので、どう仕事をしていいかが根本的に全くわからなかった。

たくさん調べて本も読んだし相談もしたけど、全然当てはまらなかった

メッセンジャーの通知音が聞こえるたびに怯えていた

気づいたら適応障害に。

それさえもそうなったのは自分のせいだからと、休職したいと言えなくて、なんとか、なんとか続けた(この頃の記憶があまり無い)

いつも隣にいてくれた会社のメンバーが何度も何度も相談にのってくれたことであの時期は本当に救われた



入社半年で「辞めさせてください」

それから数ヶ月、入社半年が経った頃、限界がきてしまったので、地元に戻ることを口実に「辞めさせてください」と伝えた(言葉に出せなかったので手紙を書いて渡した)

近くのサンマルクで2時間かけて説得(してくれた)

最後まで気持ちは変わらなかったのだけれど、当時の一番やりたくなかった業務をもうしなくていい、好きに働いていい。の言葉で私は辞めることをやめた(その業務は結局翌週からやることに笑)

私はこの時に引き留めてくれたことを今ではとても感謝しています



仕事が楽しくなってきた

あ、好きにやっていいんだ

と思えて、目の前のクライアントの為に何が出来るかな?を徹底的に考えて私がその時相手の為に出来ることを全力でできるようになった(知識やスキルがやっとここら辺から追いつき出す)

「ありがとう」

とクライアントから直接言ってもらえること、わざわざメッセージを送ってきてくれることが増えて、仕事が楽しくなった

わたしが企画したイベントにお金を払って来てくれる

そこで新しい繋がりを生み出してくれて自分のものにしてくれる

研修での私からのフィードバックを真剣に聞いてくれる

それを実践してより良いものを作れるようになる

それがとっても嬉しかった



違和感

無形のものを提供して、それの対価をもらう

今の時代、スキルや知識を色んな値段で誰もが買えるようになった

本当にそれが必要な人がいて、それがわたし・または会社にあって、それを提供することで相手が何かを得て、その対価として「お金」をもらう

これは素敵なことだと思う

けど、それを押し売りすることはわたしは絶対にしたくない

無形商品は凶器にもなり得る

中身が見えないから

会社として売上を確保するのは当たり前だし大切なことだけど、わたしはその意向と中身に耐えられなかった



クライアントからの刺激

会社のクライアント層は、大体が起業したい人か事業拡大したい人。業種もそれぞれ

沢山の人のストーリーを聞いて、挑戦する姿を見てきた

そんな人たちを見ていて私はずっとうずうず(笑)


そんな時にパートナーが教えてくれた、リノベーションスクールに参加

エリアの価値を上げ、豊かな未来を築くことに真摯に向き合う3日間の実践型スクール

株式会社 リノベリング

初めて会った仲間とまちについて本気で向き合う3日間

ここで、学生以来に自分に真っ直ぐになれた

正直になれた

自分の ”おもしろい” に真正面から本気で突き進めた


この自分、まだ居たんだ

って

すごい嬉しくて、すごく泣いた

(このことはまた違う記事で書きたいな)


わたしはもうこの会社にいたらよくない


辞めてからのことは決めてなかったけれど、気持ちだけ持って辞めることを決めた

代表に伝えるのはとても勇気が必要だったけど、気持ちが伝わって受け止めてくれました

この会社では本当に沢山の人と関わることが多くて2年で1000人ちかくの人たちと出会えた

それはこの会社にいたから

だからここで出会えた人は会社のメンバー含めて本当に財産

わたしが最後に企画した会



これから

辞めてから2ヶ月が経ちます

とても自分らしく自分のペースで生きられているな、と

周りに恵まれてるなと思うけど本当にありがたいことに、グラフィックデザインや写真、他にも幅広くお仕事をいただいたりして生きております

まちづくりをしたりも!


生き方がわからず悩んでいた時にとても尊敬する人が

「なりたくない自分を決めるといいよ」

と教えてくれました

そうならないように、そして


「おもしろそう」と「たのしそう」に敏感に

 自分に正直に

なにをするにも、この2つは大事にして生きていきたいなと思ってます


最近は人生をめちゃくちゃ楽しんでる、とっても面白くてかっこいいオトナと出会えることが多くて、生きることがたのしいし、たのしみ


さて、あしたは何をしようかな


さいごに

サムネは、会社を辞めることをたくさん悩んでた時、阿蘇山へ向かう道のりで撮った写真

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