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「人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩(じくじ)たることだ」

この言葉はサン=テグジュペリ『人間の土地』に出てくる言葉です。初めてこの言葉を知ったのは大学生の時に伊坂幸太郎の「砂漠」を読んで「人間の土地」を知って初めて知りました。この言葉は自分の中で何を大切にして生きていくのかを考えるきっかけになったので今回だらだらと書いてみました。

ちなみに伊坂幸太郎の砂漠は本当に好きな本の一つで、本当に面白いし考えさせられる小説だからぜひ読んでほしい本の一つです。

自分と関係ない不幸なこと。

それを考えるにあたって僕の関係のあることをまず考えてみる
・家族(嫁とかその家族とか自分の家族)
・友達(大学とか職場とか島の友達とか仕事で出会った人たちとか)
・仕事の業界(離島とか飲食店とかそういううところ)
・関係しているコミニティ(習い事とか趣味で関わる人たちとか)
・人ではなくもの(パソコンとか最寄駅とか)

こんなところだろうと思う。

つまり自分と関係ない不幸なことは直接被害にあっていないこと。
例えば、発展途上国のこととか日本のワイドショーであげられること(吉本の直営業の問題とかスマップの騒動とか)とか孵化したばかりの亀が蛇に食べられちゃうこととか。


改めてこの言葉について考えてみる。

『人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩(じくじ)たることだ』

いや、そもそも忸怩ってどういう意味なんだ?笑

忸怩たる思い=自ら恥じいる気持ちに駆られること。またはそのような感情。「忸怩」(じくじ)は自分の言動を恥じること。

この言葉は人間のことを褒めているか、けなしているかでいうと、後者だと僕は感じた。つまり、人間って自分と関係ない不幸な出来事にくよくよしちゃってるよね、でもそれは自分が関係していることについておざなりになってるよねというメッセージだ。

目の前の人を救うことができないなら、もっと遠くのこと(世界とか)を救うことなんて到底できないと僕は思う。
知り合いの妊婦に席を譲ることができない人が発展途上国を支援なんて馬鹿げてると思う。もっというと自分が嫌いで幸せでない人は目の前の人を幸せにすることはいびつだと思ってる。

自分に関わる人や身近な存在の幸せを考えることで世界が広がっていく。

例えば、発展途上国の子供に良いものを与えるとその子供が自分で稼げなくなるからあげないというのは、発展途上国の子供を「発展途上国の子供」として捉えてているからだと思う。全然身近な存在じゃない。その中に一人でも友達がいたら、身近な存在として彼や彼女をみると関わり方が変わる。

少し話変わるけど、発展途上国で稼ぎ方を教えることは重要なんだけど、何か良いものやご褒美をあげることが悪なんだとすり替わっていたりする。

困っていたり喜ばせたいと思うなら、あげられるものはなんでもあげたらいいと思う。それも「発展途上国の子供」じゃなくて「マリア」とか「ジャレン」とかに対してあげるという感じなら別になんでもいいじゃん。人間関係なんだから。

人間は身近ではない存在の不幸に意識が向いてしまい、身近な存在をすっ飛ばしがちになってしまうんだろう。

『人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩(じくじ)たることだ』

この言葉は、目の前の家族とか友達とか関わる人たちをすっ飛ばして、身近な存在ではない人の不幸に意識が向いて、結局何もしないで終わる人間の悲しい部分をついている言葉なんだと思う。

だから遠くの存在をどうにかしたいではなく、自分に関わった人を幸せにするためにどうするか考えて行動したい。目の前の人や関わった人を幸せにしたり、時間を割いたりすることは自分の世界を広げてより豊かな人生になるんじゃないかと改めて思った。




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