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「知ること」でセカイが広がった話

教員からベンチャーへ


私は元高校体育教師。そこから次なる道として選んだのはベンチャー企業というこれまでの私の人生からはほぼ紐づくことない全く未知のセカイだった。

学んできた分野や組織形態、価値観など何一つ共通することのない場所で、ゼロからのスタートを切ると決意した2020年から早くも1年が経った。

「自分には何ができるのか」「どんな価値を生めるのか」を常に考えながらもただ目の前にあるものに追われる日々。

そんな中で初めて聞くビジネス用語、横文字たちが私の脳を埋め尽くしていく。

「知らない」は恐怖だ。

そんな恐怖を感じながらも、少しずつ“知る”を増やしていくことで、閉ざされていたセカイが徐々に広がっていくような感覚に変わっていった。

「知る」ための手段

「知る」ためには何かしらのアクションを起こさなければならない。ただインプットをするだけでも知ったうちには入るが、私が思う知るとは、"学んだことを使いこなせるようになる"ことで初めて「知った」と言えるのではないだろうか。

そこで”知るを深める”ためにもインプットとアウトプット両方をとりあえずやってみることにした。

❶ SNSの活用

伝えるために必要なアウトプット。その手段の一つとして文章が挙げられる。この企業に入り、まず最初に直面した壁が”文章を書く”ということだった。

私がこれまで書いてきた文章といえば論文や作文程度。
ビジネスの場における「誰かに届けるための文章」を一度も執筆したことがなかった。

そんな私でも気軽にそして毎日続けられそうなものは何か…そうだTwitterだ。

以前から使ってはいたが、これからの自分の成果を目に見える形にするために、これまでのつぶやきを全削除し、全てをリセットした状態で再スタートすることにした。

「1日1ツイート」を目標に、140字で「伝える」練習をひたすら行う。

結果、ゼロからのスタートしたフォロワーは1年後には1,000人に。増えていく数値を見る度に”自分の言葉がこの人たちに届いたんだ”という自信にもつながり、Twitter以外の”伝える場”においてもより思いが伝わるにはどうしたらいいのか、見る人にどのように届くか、という想像力も鍛えることができた。

❷ 本を読む習慣をつける

私は恥ずかしながら自分に必要だと思う本(例えば自分の競技に活かせそうな本や専門本など)以外ほとんど読んでこなかった。むしろ活字を読むことに苦手意識すらもっていた。

そのため、これまでは他の選択肢を考えず-というか考えられず-良いか悪いかで判断する絶対思考でしか物事を捉えられずにいたように感じる。

しかし、さまざまな本を読むことでこんな考え方もあるんだ、と複数の選択肢や事例の中で比較しながら考えていく相対思考を自然ともてるようになった。

結果、本を読むことはただ情報を得られるだけではなく

*新しい視点や価値観が”アイデア”に転用しやすくなる
*事実を証明するための”仮説”を自然と考えられるようになる

という、自分の想像力を高めるツールになることを知った。

❸ コミュニケーションをとる

もともとコミュニケーションは得意なほうだと思っていた。

しかし、さまざまな価値観を持った現在の職場仲間や、ジェネレーションギャップがある商店街コミュニティでは今まで通りのコミュニケーションでは通用しなかった。

なんでなんだろう…

ある日上司から「コミュニケーションはいかに相手に対して想像力が持てるかどうか」と教えていただいた。

これまでを振り返ると、自分をある程度知ってくれている“自分と近しい価値観を持った人たち”が周りにいる環境があたりまえだったように感じる。

この環境があたりまえになってしまっていたからこそ、今の会社に入社した当初は「なんで分かってくれないんだろう」と感じることも多かった。

想像力を持つとは、自分が言葉を発することで「相手はどう受け止めるだろう?」とか「相手がなぜこの言葉を言っているのか」「この言葉の意図は何だろう?」など、

言葉の先にある見えないリスクまで考える

ということが、ここでいう想像力を持ったコミュニケーションなのではないだろうか。

それぞれ違う価値観をもっているからこそ、年齢や性別、職業などの”属性”として見るのではなく、一人一人と向き合い、想像力を働かせながら会話をしていく。

相手を本当の意味で「知る」ということがコミュニケーションなのだと私は思っている。

「知る」ことで見えたセカイ

これまで自分ができること、得意なことを仕事にしてきた私にとって、"できない"の連続はストレスでしかなかった。

「なんでこんなこともできないんだろう?」

と自己嫌悪に陥る日も続いた。

それこそ、教員時代は生徒や保護者の目もある中でSNSを活用しようとも思わなかったし、本も授業のために”知識を増やす”という目的のために読んでいた。また、コミュニケーションも一人一人価値観や捉え方が違う生徒に対して全員に同じ言葉を使い、一方的なコミュニケーションをとってしまっていたのかもしれないなと、今振り返ると感じる。

それは、教師と生徒という「教える側」、「教えられる側」のような、上下関係が生じるような関係にあったこと、また、対個人ではなく、対集団に対してのコミュニケーションをとる場のほうが多かったことも理由の一つなのかもしれない。

これからの私のセカイ

この世の中は「知らない」で溢れている。

教員からベンチャーへ転職したことで考え方や価値観に対するセカイが広がったのだが、これもまた手段の一つ。

「知る」ことで見える自分自身への壁(課題)をさまざまな手段を使って超えていく。

この繰り返しこそ、まだ見ぬ自分のセカイを広げてくれるのだと信じている。

そして広がっていくセカイをどう自分のものにしていくか。

まだまだ私のセカイは始まったばかりである。

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