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いつかのあの夜

いつもより少し勢いよくノートパソコンを閉じた。
これから先の時間、私は少しだけ仕事という日常から解放される。とはいえ、ここから1人長めにお休みをもらうのは同じ部署のメンバーには申し訳なく、あえていつもより少しトーンを抑えて「お先に失礼します」と口にした。足早に会社を出ると、想像以上に肌寒く、雨に濡れたコンクリートがコンビニのライトに反射していた。今日は荷物を増やさないために折り畳みを持っていなかったのでやはり、私は運がいい。
どれだけこの日を待ち焦がれていたんだろう。重要な商談が入らないように調整を重ね、昨日は頑張って残業をしたから少し寝不足だった。
駅のトイレでシンプルなパンプスから、ショートブーツに履き替え、鏡の前で簡単にメイクを直すと自然と口角が上がっていることに気づいた。どれだけ現実に疲弊しても今の自分は無敵だな、と思える、この瞬間を待っていた。

コインロッカーに預けていたキャリーケースを引っ張り出し、ブーツと共に音を鳴らして歩いていると、仕事用に纏っていた鎧が一枚一枚剥がれ落ちていくような感覚だった。足取りも軽くなる。

ターミナル駅は金曜の夜らしく人でごった返していて、ぶつからないようにキャリーケースと自分の体を動かせるようになったのはもうずいぶん昔のこと。そういえばお昼を食べて以降、なにも口にしていなかったのに全く空腹を感じていないことに気づいた。目的地到着後、店が閉まっているなんて失敗は過去に経験済みだし、明日のコンディションも考えて、とりあえず大好きなサンドイッチショップに入る。ホイップたっぷりのフルーツサンドに伸びる手をグッと堪えてたまごと野菜とハムを選んだ私を褒めてほしい。

たくさんの人が行き交う駅の広場でサンドイッチを頬張りながら、コーヒーを片手に仕事中に溜まったメッセージを確認していると、見覚えのあるトートバッグをさげた女の子たちが待ち合わせをしているのが目に入った。バッグには思い思いの色のチャームやぬいぐるみがさげられていて、みんな友達と集合した瞬間にぱっとカラフルな笑顔が弾け、はしゃいでいる姿が微笑ましかった。

すでに切符は買ってあったので、余裕を持ってプラットフォームに上がる。こういう時はつい、思い入れのある数字で座席を選んでしまう。遠慮がちに倒した背もたれに体を預けると一安心したのかまぶたが少し重い。ふと脳内に、そういえば朝ヘアアイロン切ったっけ、とか、任せてきた月曜のミーティング資料は大丈夫かな、とか、余計なことが思い浮かんだりする。その瞬間、無造作にミニテーブルに置いたスマホの画面が通知によって照らされ、好きな人の笑顔が映し出された。「もうなんでもいいか」と考え直した。

メッセージはYouTubeチャンネルの更新通知だった。ホテルに着いたらゆっくり確認しよう、と一旦お預けにした。窓を見ると都心の華やかな街灯がいつもより鮮やかに映る。車内は少し混雑をしていて、騒がしかったけどあえてイヤホンはせず、そのまま流れていく景色を眺めていた。眠たいのに、寝てしまったらもったいないような、どきどきしたきもちが電車のスピードと共に加速していく。

だんだん街の灯りは静かになっていき、何度目かのトンネルを越えると、いつのまにか意識が途切れていた。目を覚ますと、車内は居眠りするサラリーマンや小声で話す親子連れなど落ちついた雰囲気になっていた。アナウンスは降りる駅の名前を告げ、慌てて座席下に繋いでいた白いコードを引き抜き、ブランケットがわりにしていた上着を羽織った。こちらも雨は降っていないようだ。

見知らぬ街に降り立つとじわじわと実感が湧いてくる。とはいえ、1人という緊張感もある。足早にキャリーケースを引いてスマホを片手に目的地を目指す。駅からほど近い繁華街の飲食店はチラホラ営業していて、サラリーマンや大学生が楽しそうに酔っ払っていた。おねーさん、どこいくのー!と声をかけられると、いつもなら鬱陶しく思うけどきょうは私も気分がいいから許してあげよう。

今回は、路地を入った先にたたずむクリーム色の外観が可愛らしいシティホテルを予約していた。レトロな雰囲気が人気で口コミもいい。夜も遅いのでフロントは誰もいなかったけどベルを鳴らせばすぐにスタッフが出てきて丁寧に案内してくれた。

こちらはご宿泊のお客様にサービスです、と渡されたアメニティセットには、ライムグリーンのヘアクリップとヘアゴムが入っていて、好きな色に偶然巡り合うだけでも幸運を過信してしまう。明日も幸運でないと困るから。

シングルルームはコンパクトながら十分な広さだった。ブーツを脱ぎ捨て、ぴんと張られたシーツに飛び込んだ。行儀が悪いとはわかっていても、誰もみていないし、私は1人で、私は自由なんだ。これからさっき寄ったコンビニで買ったハーゲンダッツをこんな時間に食べるけど、誰も叱られない。
また眠気に襲われないうちに、明日のために奮発して買ったワンピースをハンガーにかけるという重大任務を遂行しなくちゃならない。
でも今はただ、幸せな開放感と微睡に身を任せていたかった。


カーテンの隙間から光が漏れている。アラームよりも少し早く起きてしまうのは楽しいことがある日限定だ。スマホの日付を確認すると昨日からずっと胸のなかにある高揚感が一段と大きくなった。空調のせいで室内はやや乾燥していて冷蔵庫からペットボトルを取り出す。水を飲みながらテレビをつけると、馴染みのない顔のアナウンサーがこの地方のお祭りをリポートしていた。画面の隅の天気予報を横目で確認し、顔を洗って歯を磨く。今日は少し冷えるらしく手持ちの上着を後で確認しよう。
まずは備え付けのパジャマから、持参したデニムと、ロゴが大きく描かれたフーディーに着替えた。フーディーはまだ真新しく独特な匂いがしたけど嫌じゃなかった。ヘアセットは後でやるので、とりあえず簡単にブラシで整えた。本当はもう少し寝ていてもいいんだけど、眠ってられないし、せっかくなので朝食を買いに行くことにした。

繁華街は昨夜の喧騒から一転、人はおらず、空は白っぽかった。昨晩は気づかなかったけど街のシンボルタワーが意外と近くにあり、それだけが静かに私を見下ろしていた。

Googleマップを頼りにはじめまして、の道を進み、橋を越えれば、行ってみたいとブックマークしていたパン屋さんがあるらしい。一つの大きな楽しみの前に小さな楽しみを作ってそれを経由していくことでより得した気持ちになる。

大きな橋の下には大きな川が流れていて、雲間から差し込む朝の日差しが川面をきらきらと輝かせていた。思わず立ち止まって眩しさに目を細めながら、冷たくて澄んだ空気をすっと吸い込み、はきだした。新しいものが、自分の中に入り、要らないものが外に溶けていく感覚だった。

現実は辛いことばかりだし、振り返れば誰にも言えないことも、怒りを飲み込んだことも、ジタバタしてみたり、自分がカッコ悪くて嫌になることも、声をあげて泣いた日もある。ホントに生きていくのは簡単じゃないなぁと思う。ここに来るまでにたくさんの山があって谷があって、迷って、でも今、この朝に辿り着いた。この光の中で、私は私を取り戻していく。普段のどうしようもなくて、情けない自分も、この朝には「よく、きょうまで よくがんばりました」と労ってあげよう。はなまるはつけられなくても、丸くらいはつけてあげてもいいんじゃないかな。この朝があるから、きっと私はこの先も生きていける。

私はきょう、すきな人に会いに行く。

※この文章はフィクションです

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