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セミリンガルがものを書く

ものを書きたいと思った。
三十も後半で始めることじゃないだろう、と正直思う。
それでもものを書きたいと強く思うには、大きな理由がある。

私は外国生まれで、親は日本人。
家庭内で日本語だったものの、英語時間の方が長く、でも学校の同級生ほど英語ができるわけでもなく、かと言って日本からやってきた他の駐在員の子たちほど日本語ができるわけでもなかった。
日本で生まれて引っ越してくる子たちよりも、日本語しかできないスタートの子たちよりも、確実に日本語の理解能力も、会話能力も低かった。
親や周りの駐在員家族との意思疎通に大きな問題はなかったものの、日本語を話す割には日本文化の知識も薄く、その言語とつながる世界をよく知らなかったのもあって、周りの日本人の子たちよりも自然な日本語は出なかったように思う。
かといって、英語ができたかというと、同じように簡単な意思疏通に問題こそなかったが、外でのみ触れる英語で、上手に気持ちや考えを表現できるわけがなかった。

日本に「帰国」とは名ばかりの移住をし、私は帰国などしていないのに名目上「帰国子女」となった。
小学校高学年から、英語を使わなくなり、日本語だけの世界に身が浸かることになった際に、英語は自分の中で使える言語ではなくなり、かと言って日本語だけの世界でどれだけ生きても私の中で日本語が快適に話せたことはなかった。
その後、様々な環境の変化と努力で、日本語も英語もそこそこにはなったが、あくまでもそこそこ。
結局いくつになっても私は日本語も英語も中途半端だ。
どちらもそれなりに喋れるもので、周りにはバイリンガルと誤解されるが、「母国語」とか言う感覚は全く理解できなく、私はどちらの言語を話しても快適ではない。

そんな私がものを書く。
ものを書くのは会話をするよりも遥かに楽しい。自分の思ったことが言える。
私はきっと日本語にしろ、英語にしろコミュニケーション能力や瞬発力にかけていて、なぜか書けるものが話せるかというとそうではない。
ただ、「書く」ことに関しては、何故だか面白いと言ってもらうことがある。
「話す」ほど瞬発力が必要ないからか、「話す」ことが難しいせいで独特の世界を持っているからか、
とかいろいろと自分で分析をしては見るものの、理由が明瞭になることはないだろうし、分析するのは面白いが、実際の理由を追求したいわけでもない。

ただ、私はたくさん書いてはきたけれど、外に見える形で書いたことがほとんどない。
根っからの引っ込み思案なのである。
幼い頃アメリカに住んでいた時、
そこでの日本人社会においても、
通っていた保育園や小学校の地元社会においても引っ込み思案だった私は、
今でも根っからの引っ込み思案なのである。
でも、今年書いた小説を人に読んでもらう機会があって、なんか、よくわからんけど、書いてみたい、と思った。
私は日本で暮らす、曖昧なアイデンティティの人間で、会話が得意ではないから、ものを書きたい。
この記事をそのはじまりとする。

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