アハ体験は大事って話
なにか企画をする時に、ふつうにやろうとする人がいる。
ふつうにやるというのは一番もったいない。
同じやるなら「超適当にやる」か「アハ体験が起きるレベルでやる」かどっちかがいい。
そういう話を書く。
なんでふつうにやるのが一番もったいないのか
にんげんは、なんでもかんでも相対的に判断している。というか、相対的にしか判断できない。
つまりどういうことかというと、他の人がやるのと同じようにふつうにやると、受け手はなんの違いも感じ取れず、なんの感情も呼び起こさないということだ。
そして、ふつうにやるということは、労力面でも他のふつうと同じぐらいかかる。
同じぐらい苦労して、なんの感情も呼び起こさない。だからもったいないんだ。
なんで「超適当にやる」か「アハ体験が起きるレベルでやる」がオススメなのか
カンのいい人はもうだいたいわかってると思うけど、一応説明する。
「超適当にやる」場合は、労力が圧倒的に下がる。とりあえずやることが大事なんであり、なんの成果もなくていいような場合は、超適当にやるを選んでもいいと思う。ふつうにやるよりはマシだ。まぁ、それほんまにやる必要あるんか、という話はあるけど。
で、ここから本題なのだけど、結論としては「アハ体験が起きるレベルでやる」が一番オススメだ。
アハ体験とはどういうことかというと、特別な驚き≒感情が大きく動く体験のことだ。
例えば、流しそうめん。
普通に流しそうめん器?を用意して、普通にそうめんを流し、飲んだりだべったりしながら普通に食べる。楽しく過ごせると思うが、全てが想像の範疇だ。これではどこにもアハ体験はない。
でも、例えば「そうめんから手作りする流しそうめん」とか「超光る流しそうめん」とかにすると、アハ体験になる。それは誰がどうみても他と違う。
例えば、ライブ。
上手い歌をうたい、上手なダンスを踊る。これはもうかなり一般的なことで、正直、大して驚くことはない。
でも、例えば「超運動量がヤバいライブ」とか「暗すぎて何もみえないライブ」とかになると、アハ体験になる。
例えば、フリコピ。
なんとなく手振り身振りを真似してみる。6割ぐらいはやれてるかな。これ、なんともふつうだ。
でも、例えば「10割寸分の間違いもなくやる」とか「ターンなんかも完璧にキメる」とかになると、アハ体験になる。
アハ体験というのは、そういうことだ。
アハ体験を仕込むことこそ、優れた体験をつくることなり
優れた体験にはぜったいにアハ体験がある。TDRなんかはよいお手本だ。
なにも大げさにすごいことやお金のかかることをする必要はない。
大事なのは、受け手にとって「ふつう」と違うように見えるようにすることだ。受け手が変わればアハ体験になることも変わる。ある人にとってのアハ体験が、他の人にとってもアハ体験とは限らない。人間は相対的なのだ。
ほんのちょっとの工夫と苦労でアハ体験をつくると、感動は何倍にも大きくなる。だから、実は「ふつう」にやるよりもよっぽどコスパがいい。
なにかがんばっててもあんまりうまくいかない人は、だいたい「ふつう」にやっている。「ふつう」のことを、がんばっている。残念だけど、「ふつう」のことをがんばってる人はたくさんいるので、いくらがんばってみても違いが生まれず、それは「ふつう」にしかならない。
自分がやろうとしていることには、アハ体験があるだろうか?
なにか企画をする人は、常に自問してみるといいかもしれない。
おしまい。