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慰安婦 金順徳(キム・スンドク)の仮名、金德鎭(キム・ドクチン)での証言

 この記事は以下の動画の韓国語字幕を、抽出し、Papago機械翻訳+αで、和訳したものです。

慰安婦 話(1) 郭妙淑さんの「곽은경TV2」

字幕の和訳

嬉しいです。今日、皆さんにお会いでき、とても心が暖かくなりました。
長い間水曜日ごとに侮辱したのは極少数の人だけではありましたが、今日皆さんがこうして来て 一緒に出来て、とても嬉しく思います。

今日私は挺対協が発刊した『証言集』の第1巻
「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦達」の
48頁[和訳本57頁]に出てくる慰安婦 金順徳(キム・スンドク)の、本では仮名で金德鎭(キム・ドクチン)と載っていますが、その方のお話しをお届けします。


私が17歳の時に旧暦の正月15日か2月初め頃になった時だった。
就職させてくれると、娘達を募集すると言われた。
少し前にも私達が住んでいた坪村(ピョンチョン)から何人かを連れて行ったという話を聞いて、「私も行けば良かったな」と思っていたのです。。
そう思っていた或る日、坪村(ピョンチョン)に朝鮮人男性が日本の工場で働く女性を募集しにまた来たという話を聞いたのです。
私は坪村(ピョンチョン)に行ってその人に会って日本に行く約束をしました。
その人に出発の集合場所と時間を約束した後に、自分の家に帰り日本に行く準備をした。
当時は今の様ではなく、世の中がお人好しでしたし、特に学校にも通っていない私は何も知らなかった。
工場にお金を稼ぎに行くだけで、それが危険だとは夢にも思わなかった。
出発日、約束場所である宜寧(ウィリョン)のバス停に着くと、坪村で募集していた人が出てきた。
この人は私達を釜山迄、引率しました。
出発の日には陜川(ハプチョン)馬山(マサン)等から来た女性達が30人程になったけど、私より年少から年上と様々な年齢層でしたし、中には結婚して子供を産んだことがある女性もいた。
その様な女性達はたいてい夫が日本に行っているとは言っていたものの、その女性達とは後で朝鮮に戻る迄ずっと一緒にいた。
宜寧(ウィリョン)でバスが来て、私達の一行だけを乗せて行った。
鼎岩(ジョンアム)橋[1935年竣工/動乱で破壊/1958年再建]を通りながら、私達は泣きながら、鼎岩(ジョンアム)橋よ、元気でいて、お金を稼いでくる迄、あなたは元気でいて欲しいと抱き合って泣いた。
私達はすぐお互いに姉弟と呼び合って親しくなった。


皆さん、一度金順徳(キム・スンドク)さんは自ら就職させてくれると娘達を募集するという話を聞いたのです。と言いました。

そして村で何人かが実際に就職して去って、私も行けばよかったと残念がる気持ちをあらわにしました。

そのためでしょうか、慰安婦金順徳(キム・スンドク)さんは工場で働く女性を探すという、その朝鮮の男性が村にまた来たというニュースを聞くと、とても嬉しかったようです。それで、直接その朝鮮人男性が募集人に会って、出発の集合場所と時間を約束されたのではないでしょうか?
家に帰って日本に帰る準備をした慰安婦金順徳(キム・スンドク)さんはどんな気持ちだったのでしょうか。
また、どんな準備をしたのでしょうか。

僕も行けばよかった。僕も行けばよかった。

それで、結局行くことになった。
日本に行く準備をした。
日本に行く準備をした。
日本に行く準備をした。

慰安婦 金順徳(キム・スンドク)さんが去る日、バスの中で叫びました。
いや、心の中で固く誓いました。

鼎岩(ジョンアム)橋よ、私が。お金を稼いでくる迄元気でね。
鼎岩(ジョンアム)橋よ、私が。お金を稼いでくる迄元気でね。
鼎岩(ジョンアム)橋よ、私が。お金を稼いでくる迄元気でね。

これが慰安婦金順徳(キム・スンドク)氏が日本に行くことになった情況の実体です。
これがまさに慰安婦金順徳(キム・スンドク)氏自らが明らかにした話です。

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