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併合期の日本人の半島への認識

まえがき

 この文献は国立国会図書館デジタルでネット公開されている「朝鮮と医業」(鈴木公重 著 光文堂書店医籍部出版 大正15)の一部をOCRして読み易くしたものです。元々、「醫生」の法律上の位置付けを識る為に検索し、この文献のこの場所に飛ばされた縁で読みました。
 当時の日本人が、医療従事者の視点で半島をどの様に捉え、この地で医者を志し、将来を描こうとしたのかを理解することが出来るかと思います。
 ここでは、その内、次の3節を紹介します。
第五章 風習及其他 の
第二十二節 社會 階 級 
第二十三節 男 女 の 別
第二十四節飲食
今の韓国人が言う「搾取された歴史」の実体を紐解きたいと思います。
 尚、今回、現代かな遣いに従ったルピを付けた他、句読点と段落付け、拗音文字化を行な等の可読性を高めました。

「朝鮮と医業」(鈴木公重 著 大正15年)
第五章 風習及其他

第二十二節 社會 階 級

 朝鮮の社かい組織は明治四十三年の日韓合併までは兩班やんばん、中人、常民、賤民、四階級より成て居りました。兩班とは文武の大官しくは學德高さ學者を出した家筋の正し一族でありまして名門及び官吏となるべき資格を以てもってりました。
 中人は或る限定せられた官職にあったもの一族で門地や教育が常民より稍々ややもの、常民は農、工、商を業とするものまた賤民は常民の班にも入り得な最下層のもので白丁、奴婢、倡優しょうゆう、僧侶のたぐいがそれなのであります。
 職業によって高下あり年齢の老若によりても亦差別があったのであります。また階級にしたがいて冠婚、葬祭は云ふいうまでもなく衣服、住居乃至ないしは言葉に至るまで八釜やかましく區別くべつありきび制裁がありました。例ば民賤の住家は瓦葺にしてはならぬとか、常民は門構の家を建てたり履石に階段を附けたりしてはならぬとか、兩班は入口の正門を其の兩側りょうがわの建物より一段高く拵へこしらえいとか、衣服についても淡青色のものを常用とするが常民以下は色物の上衣を着けてはならぬとかいの類であります。
 かようの階級制度は併合を同時に全然徹廢せられて所謂いわゆる四民平等となり漸次に移風風俗の事實じじつを見るようになりしが、何分長間植えつけられた風習なので根本的には末だ却々なかなか脱けきれません、殊に地方によると依然たる所も少くありません。

第二十三節 男 女 の 別

 朝鮮では男女の別と云ふ事が厳格に守られて居ります。夫婦の間柄でも下層の者でない限りは住家に內外の區別を設け、男は表の方に、女は內の方に各々部屋を別にしてあります。
 女の居る方を內房としょうし表の方とは塀等で區切られてありまして表の方から直接にうかがれないうになって居るのです。若し內房の方に婦人の來客でもある場合には家族の一員たる男子でも尚遠慮して近寄らぬよう注意を拂ひはらいます。又親族のものでも極めて近間柄の者以外は內房から呼込まな以上は決して內には入りません。
 一般に婦人は見も知らぬ男に對しては顏を見られる事さも耻辱として居る位ですから如何いかに主人の懇意な友人でありましても之と言葉を交したりなどすることはなく若し已むを得ざる場合には如何にも迷惑そうに他々他々し態度で極めて無愛相、應對するのであります。
 女子は十二三才になりますと表の方には姿を見せません、又親の監督が嚴しく假令階級のものでも娘一人で出歩くと云ふようのことはありません。
 そんな次第で處女しょじょの貞操はきよく保たれてるのであります。處女を冒した男子は非常に排斥を受けるのみならず其の女子を引受けねばなりません。亦制裁もあります。かようの理由から婦人は余り外出なく多くは家內に蟄居ちっきょしてゐるのであります。
 亦家庭では一日三度の食事は必ず都度炊くことになってりまして冷えたものは決して食べませぬし、それに衣服は汚れ易白地でありますのと一つ縫ひと云ふ面倒な仕立方でありますから、家庭內に於けるうした炊事、洗濯、裁縫の仕事に日夕忙殺されて實際じっさい上から余り出歩くことが出來できないのであります。
 以前には婦人が外出する場合親戚知人を訪門する時には中流以上は乗物が先方の內房まで乗附けにして全然姿を見せません。そうでないものは被衣で顔覆ふおおうて目ばかり出して往來おうらいしたのであります。
 併るあわせるようの風習と近來妙齢みょうれいの女子が學校に通初めてからは順次廢れすたれて來ました。今日では殆ど被衣姿の婦人など稀に見る位であります。
 併ししかし男子に對する態度は以然とかわりなく男子に馴々しい言葉をかけるようの舉動きょどうは今も娼婦のしわざにひとしとの觀念に支配されて之を蔑視してるからであります。
 かようのわけで自分の良人にたいしてさも無愛想な態度を取る事もあります。

第二十四節飲食

 食物は米飯を主といたしますが地方によってはむぎ飯、小豆飯あずき等を用ます。副食物は鳥、獸、魚肉および野菜などを料理したもので醬油しょうゆ又は味噌みそで味を付けます、調理法は汁物、煮付の二種ありまして油で揚けたものを食べますが酢の物は一般に嗜好されません(副食品としての漬物─調味料として唐辛)。

あとがき

 この記述は、著者の体験から得た印象と風聞から記述されたものと思われる。ですから、この記述通りだとか、これが一般的だったとかと迄は言えないものとは思います。
 しかし、併合から十数年経過した半島での旧慣習と現在の変化をある程度記述しているのではないか個人的には視ています。

 身分区別の意識、女性の位置付けや、当時の女性自身の意識とその変化が、この時期には存在したことを理解して、日韓併合期という『歴史空白』を考えることは必要な様に思います。

 また、今回は省きましたが、医業を志す「侵略者の日本人」かせ半島の地とそこの朝鮮人をどの様に視ていたか、そしてその内政を担当していた朝鮮総督府が、半島内の医療体制をどの様にしようとしていたかも、別の記事で考えて試たいと思います。

医療分野で侵略した日本なのか?
それとも医療提供を考えてのことなのか?

その辺りも客観的に考えて試たい。


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