深読みで楽しむDetroit:Become Human (23) 青い血、人の仮面

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

『天敵』シノプシス
 
コナーはアマンダに捜査が進まないことについて問われ、新たに発生したTV局ジャックの捜査に送り出される。事件を受けてFBIも捜査に乗り出しており、一連の変異体事件はデトロイト市警の手を離れつつあった。

MAKE HUMAN GREAT AGAIN
 最初にこの章のタイトルなんですけど、原題はPublic Enemy、つまり「社会の敵」「反社会的存在」であって、天敵(=絶対に勝てない相手)とは全く意味が違います。当然このタイトルには、「人間様は立ち上がったアンドロイドを反社、絶対悪だと思ってるよ(、でも本当はどうなんだろうね?)」というニュアンスが含まれているはずなので、この訳をつけた翻訳者は英語だけでなく、日本語をもう一度勉強し直して来ていただきたい。ちょっとひどい。通訳・翻訳業に一番必要な能力は、母国語のスキルなんですよ。

 さて今回、禅庭園で待っているアマンダは、船に乗って唐傘をさすという印象派の絵画を一つにまとめたような状態です。洋傘ではなく唐傘というのは、浮世絵に影響を受けた印象派によくみられるモチーフですし、船遊びはクロード・モネをはじめとする多くのフランス印象派の画家が描いた構図でした。印象派が活躍した19世紀から20世紀初頭にかけての時代を俗に「ベル・エポック(美しい時代、古き良き時代)」と呼び、懐古の対象なわけですが、ゼン庭園がエキゾチックで懐古主義なのはサイバーライフ、ひいては人間側の考え方が懐古主義・独善的な保守主義であるという、無言の批判なのかもしれません。
 コナーの会話の中で、アマンダは「外の世界」と「ここ(禅庭園=“内なる”世界)」を対比して言及していますが、これはストーリーのラストで明かされる庭園の正体の伏線になっています。ちなみにストーリーの開始から数日しか経っていないのにどんどん季節が移り変わるあたりと合わせ技で、敏感な人はここが現実世界ではないと気付くのではないでしょうか。

 なお、第一次大戦によって終わりを告げるヨーロッパの古き良き時代「ベル・エポック」に対して、第一次大戦後の復興・繁栄期(1920年代)は「レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)」と呼ばれます。この時期をアメリカでは「ロアリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)」と呼びますが、大衆文化の発展や新技術の導入など、一気に社会の空気が変わった時代でもあります。アマンダが「外の世界の喧騒」と呼んだものは、「時代の変化の音」だったのかもしれません。
 この時期は日本でも大正デモクラシーに相当し、自由と民主主義という近代的な思想が一気に拡大した時代でしたが(男子普通選挙も実現された)、アメリカでは女性の参政権が実現し、フランスではココ・シャネルによる自立した女性のためのブティックが婦人服の概念を大きく変えました。
 こうした社会の(比較的ポジティブな)変化は、1929年に始まる世界恐慌で終わり、その後は内向きのファシズムが勃興して二度目の世界大戦へとつながっていくことになります。DBHの紛争エンド、人間とアンドロイドが歩み寄ることのない展開は、一面としては欧米社会の繁栄の悲劇的な結末と重なっているようにも思えます。もう一面としては……答えはCMの後!

 ところで、最初の章で警官を助けていると、生還した彼がスタジオにいて、探索中のコナーにお礼を言ってきます。しかし、ここまでで一度でもコナーが死んでいると、コナーの側は助けたことを覚えていないのですね。一方、最初の章でコナーが落下していて、屋上でマーカスたちがダイブした位置を調べると、コナーは落下したことを思い出して思わず後ずさります。
 コナーが死ぬたびにソフトウェアの異常(=非論理性、人間らしさ、感情)が減ることも含めて、コナーのバックアップからのデータ復帰には一部データの削除・欠落があるようですが、その選択基準がよくわかりません。サイバーライフが復元するデータを検閲しているとして、「警官を救った」ことは事実として記憶しておいても良さそうな気がするんですけどね。演出重視?それは言わない約束なので……。
 しかしこうやってみていると、アンドロイドと交流(?)することでアンドロイドへの感情が変わる人ってものすごく多いんですよね。もちろん多少見下し気味なところはあるのかもしれませんが、

「偽りの共存」の歴史
 この章でマーカスのマニフェストの録画に触れた時、コナーはいつも以上に動揺していたように見えます。閲覧後にハンクにわかったことがあるか問われたあとの回答は、不思議と何かをごまかしているような雰囲気がしたのは、私だけでしょうか。
 「虐げられた民族」としてのアンドロイドの主張と、そのために(身元隠しの手段として)剥がされた皮膚。この二つは、20世紀中盤に「征服され、西洋化された民族としての黒人のアイデンティティ」について問いかけ、フランスの植民地主義を激烈に批判したフランツ・ファノンの思想を思い出させます。ファノンはカリブ海にあるフランスの海外県(つまり現在も合法的に植民地として継続している地域)、マルティニークに生まれたフランス人で、いわゆる「人種」としてはアフリカ系になるのですが、フランス領カリブ地域の多くの人がそうであるように、植民者である「白人」フランス人の血も受け継いでいます。
 フランスの植民地というと、ほとんどの人はアフリカとインドシナ(ラオス、ベトナム、カンボジア)を思い浮かべると思います。おそらくそれは、フランスから独立した国の多くがその地域にあるからです。南北アメリカおよびカリブ海諸国では、たとえばハイチはフランスから独立しましたが、デトロイトを含む北米東側の多くの地域とカリブ海のいくつかの島々は英国に奪われ、かろうじて残ったグアダルーペ、マルティニークは今もフランス領です。ついでにブラジルの上にちょこんと乗っているギアナという県もいまだにフランス領だったりします。唐辛子の一種「カイエンヌペッパー」の語源となったカイエンヌが、ギアナ(ギアーヌ)県の県庁所在地です。
 ちなみに中東ではシリアと、最近話題のレバノンがフランスの植民地でした。さらにインドにも若干の植民地があり、フランス東インド会社の商館が置かれた各都市は紅茶ブランド「マリアージュ・フレール」のブレンドに名を残しています(ポンディシェリシャンデルナゴルカリカルマエヤナオン)。

 これだけあちこちにあったフランス植民地ですが、カリブ海地域の最大の特徴は、ファノンのような「混血児(メティス)」が多く生まれ、人種の壁があるとはいえども二項対立ではなく、むしろ相対的、グラデーション的なものであったことです(これは中南米の多くの地域に共通しています)。有名どころでは、「三銃士」を書いた大アレクサンドル・デュマの父で、ナポレオン軍の将軍として活躍したトマ・アレクサンドル・デュマは、白人の父から公爵家の血を、母から黒人の血を引いた貴公子としてルイ16世に仕え、のちに革命軍に参加するなど、社交界でも有名な人物でした(でも小さい頃に、一度は父親に奴隷として売られたらしい。なんだそのクソ父)。
 実を言うと私はこのメティスの、人種差別は受けているけど教育も受けていて有能な補佐ポジションの人物というのが大変性癖にヒットするタチでして、98年サッカーW杯でフランスが優勝した時の主力メンバーであるリリアン・テュラム先生とか、もう好きで好きで仕方がないんですけど、そんなことはどうでもよろしい。98年W杯のフランス代表は、当時からネオナチに「アフリカ代表じゃねえか」と揶揄されましたが、そこに名を連ねた「黒人」選手の半数はカリブ海出身の、法律上は17世紀くらいからずっとフランス人をやっている血筋の人たちでした(面白いことに、2018年W杯で二度目の優勝を果たしたフランス代表の「黒人」選手のほとんどは、フランス本土で生まれています)。

下克上は抑圧者を解放するのか
 彼らは17世紀からフランス領だった土地に住み、本土出身のフランス人と混血し、教育もフランス式のものを受け、進学するなら本土フランスの大学、となるわけですから、思考も概ねフランス化しています。さらに言うとフランス人の条件は「(血筋は割とどーでもよくて)共和国の精神を共有していること」なので、帰化申請の条件としてフランスで教育を受けていることが含まれていたり、国立統計局の調査では国籍は聞けても人種や血筋については聞くことが禁じられたりしているわけですから、カリブ出身のメティスのアイデンティティはほぼ「ふつーのフランス人」です。私も大学時代の友人の中にグアダルーペ出身の子がいましたが、アフリカ出身の留学生やベトナム系フランス人と比べて明らかに民族アイデンティティーが弱いように感じました。

 フランツ・ファノンは、カリブ系フランス人が「黒い肌に劣等感を抱き、白人に憧れ、よりフランス人化しようとしている」ことに疑問を投げかけました。この文脈では黒人が一人前になるとは、「白人になる」ことでしかありません。それは訛りのないフランス語を話し(カリブ海のフランス領では、フランス語をベースにほとんど別言語と化した言葉が話されています。言語学的にはクレオールと呼ばれるものです)、フランス本土で教育を受け、(白人と混血するなどして)より白い肌になるということを意味します。こうした社会では、黒人は黒人であるという事実だけで、心に傷を負い、劣等感に苛まれて歪んでいくと、ファノンは指摘します。

 この構図は、DBHにおける人間とアンドロイドの間にも見られます。例えばコナーは「優れたアンドロイド」であるために、人間そっくりのコミュニケーションを可能にする「ソーシャルモジュール」を埋め込まれています。これは、アンドロイド同士であれば接触(=クレオール)により意思疎通できるにも関わらず、人間的なコミュニケーション(=正統フランス語)を使いこなすことが「より良い人間(=より”白い”黒人)」とみなされたことと通じます。
 ファノンの最初の著作は「黒い肌、白い仮面」と言います。このタイトルは、生まれつきである有色の肌と、社会の中で育まれた白人的メンタリティーを対比していますが、アンドロイドの世界でも「機械の体」は「皮膚機能によって人間を細部まで模倣した仮面」によって隠されています。
 コナーが「人間の仮面を取り払い、アンドロイドとしての機械の肌を晒して解放を訴える」マーカスの演説を見た時、どこか動揺した様子を見せたのは、それが「支配者としての人間と従属者としてのアンドロイド」というクレオール的価値観に疑問を抱いた瞬間だったからなのかもしれません。
 
 ファノンはまた、人々の間に支配者・被支配者の上下意識がある限り、差別を受ける側の有色人種(アラブ人、黒人)の間でも同様の差別が再生産されることを指摘しました。彼は差別の再生産を故郷マルティニークで実感しただけではなく、晩年に参戦したアルジェリア戦争において「アラブ人によるベルベル人の虐殺」という形で見ることになります。(ちなみにベルベル人というのは、98年サッカー代表のエース、ジネディーヌ・ジダンの出身民族で、現在も北アフリカ諸国では少数民族として弱い立場にあります。彼がサウジアラビア戦で相手チームの選手を「踏んで」退場処分となった時、フランス人は「アラブ人への遺恨があってわざとやったのでは」と噂しました)。
 植民地主義からの解放は、単なる被制服民の下克上ではなく、全ての人間が肌の色や出自を超えて平等になることでしか成立しない。黒人であること、白人であることがアイデンティティとしての意味を持たないこと、白人が知的であったり、植民地主義が悪であったりするわけではなく、誰もが一人の人間として等しく知的であり、等しく悪であるのが社会のあるべき着地点ではないか。ファノンは、フランスで医学を学び、アルジェリア独立戦争に身を投じるなかで、その結論にたどり着きます。
 さて、マーカスに率いられる変異体アンドロイドたちは、「アンドロイドとしての人類への下克上」を目指すのでしょうか、それとも「機械か生物かを超えて、同じ知的生命体としての平等な共存」を目指すのでしょうか。そういえば、マーカスを演じたジェシー・ウイリアムズ氏はスウェーデン、アフリカ、ネイティブアメリカンの血を引く、まさに「メティス」なんですよね。もしや狙ったのか?

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