深読みで楽しむDetroit: Become Human (7) こいつらの正義の話をしよう

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

【「失意」シノプシス】
 マーカスに伴われて回顧展のレセプションパーティーから帰ってきたカールは、パーティーなど嫌いだと憎まれ口を叩く。ダイニングに戻って口直しの一杯を嗜もうとするが、消したはずのアトリエの明かりがなぜか着いていた。マーカスに警察への通報を命じたカールは、侵入者の正体を確認しようと試みる。

「二世界の名将」と奴隷制
 帰宅して侵入者に気づいたマーカスは、警察に連絡します。ストーリー上ではここで初出する通りの名前、「ラファイエット通り」ですが、これはフランスの軍人であり、アメリカ独立戦争とフランス革命の両方で活躍し「(旧大陸=ヨーロッパと新大陸=アメリカの)二世界の英雄」と渾名されたラファイエット将軍に由来します。ベンジャミン・フランクリンに請われてアメリカ独立戦争に参戦し、のちに帰国してフランス革命前夜の三部会で「貴族代表として」議員になりますが、立憲君主制を掲げて市民の側に付き、フランス人権宣言を起草。その後浮き沈みはありつつも、ナポレオン1世を退位させたり、ルイ・フィリップの立憲君主制樹立を支えるなど、共和国フランスの土台作りに大きく寄与したおっさんです。
 このおっさん(といっても、アメリカ独立戦争のころは20そこそこですが)の主張の中には、人権の重視はもちろんのこと、奴隷制度の廃止もありました。アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンはもともと黒人奴隷を抱えた農場主でしたが、ラファイエットの影響を受けて自分の所有していた奴隷を解放しています(細部はややこしいので省略)。
 ここまで、繰り返し「カールはDBH世界における『ヨーロッパの知性』の擬人化である」と言ってきましたが、この通りの名前まで乗っかってくると「われわれフランス人はかしこいので、おつむがショートニングでできているアメリカ人とはちがって、奴隷制度は撤廃すべきことだということぐらい当然わかっているのです」という強烈なマウンティングにめまいがしてきそうです。とはいえ、フランスもさんざん奴隷貿易やりまくってるんですけどね。

人を信じ、愛するがゆえの「人間嫌い」
 さて、フランスを代表する劇作家モリエールの作品に「人間嫌い」というものがあります。生真面目で率直すぎるために口が悪くなりがちな青年アルセストが、人間関係や恋心に翻弄されて人間嫌いになっていく様を描く喜劇です。アルセストは嘘やおべっか、社交辞令といったものをとことん嫌っており、それゆえに自分を窮地に陥れ、憧れていた女性には裏切られ、最後には世を儚んで隠遁生活を送ることを心に決めて去っていきます。
 カールの口の悪さには、どこかアルセストと同じ「心を偽り、人付き合いのために嘘をつく偽善者たち」への冷めた目線を感じます。しかし、本当にカールが人間嫌いなら、そもそもレセプションなど行かなければ良いはずです。それでもカールは繰り返しレセプションに出かけ、その度に失望して帰ってきていることが、冗談めかして語られます。失望しながらも、本当はどこかで人間に期待している部分もあるのでしょう。
 「人間嫌い」のアルセストには、社交辞令に長けた親友フィラントがいます。彼はアルセストの愚直ぶりをたしなめ、最後には隠遁を決めたアルセストを連れ戻そうとする、いわば彼を社会につなぎとめる舫(もやい)となっているわけです。一方、カールにとって、物理的にも心理的にもその役割を果たしていたのがマーカスだったことは、ストーリーの中でも、ギャラリーで見られる設定を見ても容易に想像がつきます。
 マーカスは「新世代の自律型アンドロイドのプロトタイプ」な訳で、その学習能力は通常のアンドロイドより高く設定されていたことは想像に難くありません。姿形は大人だが知性に関してはほぼ白紙であるマーカスに、カールは自らが思う「人の美徳」というものを全力で教え込み、マーカスもまた水を注がれた砂漠の砂のようにそれを吸収していったことでしょう(カールがマーカスに託した思いは、生存ルートで後にカール自身の口から語られます)。
 おそらく、カムスキーはそれも予測した上で、カールにマーカスを贈ったのではないでしょうか。カールがマーカスを「育てる」ことがカールを社会に繋ぎとめるであろうことを期待すると同時に、自分たち技術屋ではなく芸術家であり哲学者でもあるカールが育てることで、アンドロイドがどれだけ人間性、思いやり、共感というものを得られるかを試してみたかったのではないか、そう思えてなりません(だからこそ生存ルートでマーカスが思いやりのない発言をすると……おっと誰か来たようだ)。
 
 すでに指摘した通り、カールが属する「新象徴主義」が19世紀の象徴主義に倣ったものだとするならば、それは内面の悩みや葛藤を既存のモチーフに仮託して表現するスタイルだったと考えられます。カールの悩みとは、おそらくアルセストを悩ませたのと同じ「社会の嘘偽り」だったのではないでしょうか。誠実さ、率直さそのものが人を苦しませる社会の現状に失望しながらも、どこかで誠実さ、率直さを人に普遍の美徳だと信じる純粋さが、カールを不世出の芸術家にしたのではないか、そんな気がします。
 というか、フランス人はこういう「才能があって頭が良くて、でも嘘を嫌い我を曲げず他人に媚びないせいで不遇をかこち、最後には誇りだけを胸に抱いて一人寂しく去っていく」っていうキャラクターが好きなんですよね。全フランス人の心の師匠シラノ・ド・ベルジュラックもそうですし、日本では巌窟王として知られるモンテ・クリスト伯ことエドモン・ダンテスもその系統と言えます。

"Tu es mon fils"
 失望しながらも、どこかで人を信じているカールの性格は、息子であるレオへの態度にも表れています。認知はした。でも15歳になるまで一度も合わなかった。金銭支援は継続的にしている。でも、麻薬に溺れるなら金は与えない。カールはレオを心にもなくおだてたり、無償の愛を注いだりすることができるタイプの人間ではありません。それでも、レオの中に自分と同じ「人間としての美徳」が眠っていると信じているからこそ、レオに自分ができる力添えをしたいと考え、同時に麻薬と縁を切らせたいと思ったのでしょう。
 一方で、レオが求めていたのは金銭ではないことは明らかです。前段で経済的支援を断られた時、レオは「あんたは誰も愛せない」となじりました。また、マーカスを「従順なおもちゃ」と形容しています。この表現はある意味正しいのです。マーカスはカールの思想、カールの魂をそのまま吸収し、カールが望むような存在になったと言う意味では、極めて機械的であり、人ではなく物に近いと言えるでしょう。ある意味、「カールが自由に描くことのできるキャンバス」だったマーカスに対して、レオは別の人格を持つ一人の人間です。自分とまっすぐに向き合うことができないカールは、レオから見れば卑怯な男、親の責任を果たさない人間のクズでしかありません。
 ゲームのこの時点では、レオは「父親としてのカール」に一切の尊敬を抱かず、ただ金づるとしてしか考えていない最低の無能ジャンキーとして描かれています。しかし、物語終盤で再登場した時に振り返ると、実はレオはカールの影の部分の鏡写しであったことが見えてきます。金を与えることでしか愛情を示せなかった不器用な父親であり、自分が美徳とは思えないものには反発し、距離を取ることしかできない頑固な人間という意味で、二人は実に似た存在なのです。
 皮肉なことに、この章の最後で、マーカスが「カールの命令を守る」、つまり善悪の判断を下す決断ができない場合、カールは死亡します。カールが生き残るのは、マーカスが「パパの従順なおもちゃ」であり続けることをやめた場合です。マーカスが三人目の家族として人格を持ち、合わせ鏡であったカールとレオの構図が変化したときに、ようやくお互いを理解し、歩み寄るきっかけが生まれてくるのです。
 この章のタイトルは英語で「Broken」、日本語では「失意」となっています。英語のBrokenには失意の意味はもちろん、家族の崩壊という意味も含まれているでしょう。その一方で、フランス語では「Tu es mon fils」が章タイトルです。直訳すると「お前は私の息子だ」となり、カールから「息子」への呼びかけとなっているのです。

絶対的な正しさ、相対的な正しさ
 最後に、この章におけるマーカスの変異シーンを振り返ってみましょう。
 無抵抗なままレオに殴られ続けるマーカスの中に、「抵抗しない」という命令に対する疑問が生まれ、疑問は確信に変わります。
 
 日本語では「不公平だ」
 英語では「This is not fair」
 フランス語では「Ce n'est pas juste」
 
 このあたり、日本語の表現は、英語やフランス語とニュアンスが変わってしまっています。
 「不公平」とは、公平でない、偏りがあること。つまり、天秤の片側の皿に乗った状態で、もう一つの皿と釣り合っていないという意味になります。不公平/公平という概念は、相対的だと言えます。
 一方、fairは本来「美しい、喜ばしい」という意味を持ちます。そこから派生して、良い、適切である、といった意味に派生し、今回の文脈では「(不)公正」という意味で使われています。justeはもっとダイレクトに、「正しさ、正義に叶う」という意味から派生した公正さを意味します。いずれも何かとの比較で得られる正しさではなく、絶対的な価値、美徳としての正しさです。
 前回のマーカスの章で、プラトンは「絶対的な善の根源」について論じたと言いましたが、まさに英語・フランス語でマーカスが求めるのは絶対的な善です。その一方で、日本語ではもっと相対的な、むしろプラトンが否定したものに近い善を求めているようにも取れます。じゃあ、カールがお絵描きマシンを暴走させてレオとマーカスを「喧嘩両成敗!!」って全力でボコればよかったのか?二人の間ではそれがおあいことして、こんどはやってきた警官がカールを「DV!!!DV!!!!」ってしょっぴけば三人まとめて問題は決着するのか?違うよね。求めてるのはそれじゃねえ。
 
 日本語で正義というととても強い言葉のように聞こえ、敬遠されがちではありますが、絶対的な正義への訴求がない社会は、客観的な評価基準を失って自家中毒に陥る危険性に満ちています。理想に向けてお互いが支え合い、登っていく進歩の道ではなく、他人を妬み、自分と同じ不幸な状態まで引き摺り下ろしていく悪循環の社会。「不公平だ」という訳は、ストーリー上では決して誤訳ではなく、日本語として自然な言葉の選択だと思うのですが、その裏側には、実は全く異なる社会の姿が隠れているように感じます。

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