深読みで楽しむDetroit: Become Human (11) 今日は来ません、でも明日は必ず

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

【「ハンク」シノプシス】
 コナーは上官であるアマンダに指示を受け、デトロイト市警に赴いて再びハンクとともに一連の変異体事件を解決することになる。市警を訪れると、ハンクはまだ出勤していなかった。ハンクはまだしばらく来ないだろうと教えられ、コナーは情報収拾を開始する。

Soyez Zen
 章の冒頭で初めて登場する「禅庭園」、実はZenという言葉はすでにフランスの日常語になっています。(特に不安などマイナスの)感情がない、穏やかな状態を指し、例えば金融商品に「ゼン」という名前が付いていると「損失リスクが小さい、安心な商品ですよ」というアピールになります。時には人間味がないくらいの冷静さを意味することもある単語です。
 この庭園も、コナーシリーズの管理インターフェイスであり、外界(現実世界)の喧騒に煩わされない仮想空間として設計されています。文字通り、ゼンな空間というわけです。当初は綺麗な庭園だなーというイメージしか浮かびませんが、よく見ると橋はあからさまにポリゴンだったり、例の非常口があったり、仮想空間だよというヒントはいろんなところに散りばめられていますね。

エンドレスハンク
 この章のタイトル、日本語だとシンプルですが、英語ではWaiting for Hank...、フランス語だとEn attendant Hankとなっています。この構文を見ると連想されるのは、サミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」です。
 ウラジミールとエストラゴンという浮浪者風の男性ふたりが、木が一本あるだけの場所でひたすら「ゴドーさん」を待ち続ける、ただそれだけの話です。途中、ポッツォという男が首に縄をつけた召使い(?)ラッキーとともに通りかかります。ポッツォはラッキーをぞんざいに扱い、無茶振りをするなど、一通り場を賑わせて去っていきます。彼らが去ったあと、少年が現れ「ゴドーさんは今日は来ません。でも、明日は必ず来ます」と告げます。第二幕も(細部以外は)ほぼ同じ展開です。結局ゴドーさんは来ません。でも、明日は必ず来ます。
 サミュエル・ベケットはアイルランド出身の作家ですが、「ゴドーを待ちながら」はフランス語で書かれました。ベケットは第二次大戦直前にパリに居を移し、ドイツがフランスを占領するとレジスタンスに身を投じました。しかしながらドイツの捜査が身辺に及ぶと潜伏せざるを得ず、結局は田舎に身を潜めて終戦を“待つ”ことになります。この間、パリを中心に大規模なユダヤ人狩りが実行され、フランス全体で8万人のユダヤ人が強制収容所に送られました。8万人のうち、生きて再びフランスの地を踏んだのはわずか2500人。600万人とも一千万人とも言われるショア(ホロコースト)の犠牲者としてはごく一部にすぎませんが、その死亡率の高さは今もフランス人のトラウマです。実際に、フランスにおけるショアの歴史は長年、見て見ぬ振りをされてきており、1990年代後半になってようやく公に語られるようになったのです。
 何も起きない、何も変わらない、ただゴドーが来るということだけを希望に待ち続け、自殺を試みたりもするけれど結局死ねずにやっぱり待ち続ける。「ゴドーを待ちながら」の空虚さは、ベケットがレジスタンスの活動に関与することすらできず、ひたすら終戦を待ち続けた苦悩を反映したとも言われています。またGodotとは神(God)に愛称化の接尾語(-ot)をつけたものではないか、というのが定説になっていますが、あまりにも抽象的な作品のため、解釈の仕方は無限に存在しています。
 この章ではコナーがハンクを待っているわけですが、絶望の一歩手前にあり、来るあてもない誰かを待っているというシチュエーションは、物語を進めるに連れてハンクの心理状態に近いことが見えてきます。「自殺を試みるが死ねない」という第二幕の終わりも、今後の展開と被りますね。待ち続けたベケットにはフランス勝利での終戦が訪れましたが、ハンクの待ち人は来るかどうか、そこはプレイヤーに託されている部分です。

「聴く、というのとは違いますが」
 ハンクが出勤してくるまでの間、コナーは警察署内を探索することになります。ここで「ハンクはいつも昼くらいまで来ないよ」と教えてくれる警官、本ゲームの中で数人いる、「黒人訛り」のアクセントを持つ人物です。
 もし「尋問」でカルロスのアンドロイドが生存していた場合、拘置所に行くと、自分がサイバーライフに送り返されて分解されてしまうことを理解したカルロスのアンドロイドは、コナーの目の前で自害してしまいます。展開にもよりますが、コナーにとっては2度目の「裏切り」を実感させられる瞬間です。
 
 他にも取調室を見にいったり、トイレで鏡を確かめたり、ギャビンにちょっかいを出して嫌がらせをされたりと、さまざまな選択肢がありますね。多くの人は目の前にあることもあり、ハンクのデスクを調べるのではないでしょうか。何らかの「調べ物」をするとハンクが出勤し、署長に呼び出されることになります。
 署長に「誰もやりたがらない仕事を押し付けられた」と不満なハンクに、ソーシャルモジュールを駆使して世間話をする部分ですが、ちょっと残念な誤訳があります。話を振ってハンクに「お前、ヘビメタ聴くのかよ」と問われ、コナーは「Well, I don't really listen to music as such(, but I'd like to)」と返すのですが、これは「音楽はあまり聞かない」ではなく「真の意味で音楽を鑑賞するというのとは違いますが(、鑑賞できるようになりたいですね)」とするのが、よりニュアンスを汲んだ訳になるかと思います。コナーが伝えたいのは「私は機械なので人間が“鑑賞”するように、娯楽として音楽を楽しむことはありません(おそらく、分析はするのでしょう)。でも、私も人間の“鑑賞”するという感覚を知りたいですね」といったあたりで、感覚の違いを踏まえた全力の歩み寄りがうかがえるセリフです。ソーシャルモジュール優秀だな。同時に、マーカスが芸術を鑑賞するどころか、自分で絵画を描ける程度まで芸術性を消化していたことや、アンドロイドアイドルの存在を考えると、アンドロイドにとって芸術を理解するのはそこまで難しいことでもないのかもしれません。

 ハンクの向かいのデスクに座って事件ファイルを確認すると、他二人の主人公はもちろん、ノースなどのファイルを見ることができます。この辺は、2周目以降のお楽しみ要素でしょうか。しかし、アンドロイド側から見て「自己防衛」に過ぎないケースでも、ファイルを見ると「以前から度々暴力行為を行なっており、所有者に暴行を働いて逃走した(カーラ)」などとなっており、視点によって物事の見方が変わることを実感させられる作りになっています。
 人間ではなくアンドロイドを主役に据えるということ自体がDBHのストーリー上の大きなひねりになっていますが、こうした細かい部分でもその視点を生かした演出が行われている印象です。

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