深読みで楽しむDetroit: Become Human (8) 我に神なく主人もなし

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

【「尋問」シノプシス】
 ハンクはカルロス・オルティーズを殺したアンドロイドに尋問を行うが、黙秘を貫かれてお手上げとなる。代わりに尋問役を買って出たコナーは、被疑者アンドロイドの感情を揺さぶる作戦に出る。

自由意志と暴力革命
 コナーが脅したりすかしたりすることで、カルロスのアンドロイドは自白を始めます。曰く、当初は何も感じていなかったが、突然死が怖くなったとのこと。また、カルロスを殺して気持ちよくなったものの、自分に命令してくれる人がいなくなったせいでどうしたらいいかわからず、ずっと屋根裏に隠れていたということ。カルロスは引きこもり生活をしていたようなので、彼に使われていたアンドロイドもまた外出の機会はほとんどなく、得られた情報は少なかったのでしょう。それでもRA9とジェリコのことは何らかの形で知っていた(?)ようですが。にしても名前ないと呼びづれーな。カルロスもこいつに名前つけてから死んでくれ。余談ですけど語源的にはカルロスもカールも同じですよね。
 カルロスのアンドロイドのように中古で販売されるアンドロイドは少なくないようですが、おそらく販売時にメモリーがリセットされると思われます(個人情報の問題があるからね)。メモリーをリセットされたアンドロイドは自我形成もリセットされるのか、それとも情報がなくなるだけで自我そのものは持ち越されるのか。その辺はもうちょっと掘り下げて欲しかったところです。コナーは機体が破壊されてもある程度自我形成は引き継がれているようですし、カーラもそれなりに自我が残っているようなので(自分で自分の名前をアリスに教えているところから推測)、カルロスのアンドロイドも実は過去からなにか持ち越したものがあったのかもしれません。
 ところで19世紀フランスの革命家、オーギュスト・ブランキが生み出した共和主義者やアナーキストの標語に「我に神なく主人もなし(Ni Dieu ni maître)」というものがあります。文字通り、己の支配者は自分だけであり、神であろうと、資本家であろうと、己を支配することは許さない。民衆の暴力的革命による権力の奪取と生産手段の国有化を掲げた、いわばマルクスのお師匠さんです。暴力革命ルートのマーカスの行動は、かなりの部分でブランキ主義との共通点が見出せます。なぜ私がこの言葉を思い出したかというと、カルロスのアンドロイドはむしろこの標語の逆を行っていて、「神(RA9)も必要だし主人(=命令してくれる人)も必要としている」という点が、ストーリー中で語られる他のアンドロイドと違っていて面白いな、と思ったからです。
 そもそも、マーカスやコナーはともかくとして、他のアンドロイドは神も主人もない状態で生きられるのでしょうか。投入された情報量でも、おそらくはそれを処理する能力面でも、マーカスと他のアンドロイドの間には相当の差があります。カーラには一応「アリスを守る」というプライム・ディレクティブがありますが、他のアンドロイドには自己保存以外の行動原理が発達してなさそうに思うのですよね。
 全くの余談ですが、DBHと同じアドベンチャーゲームの金字塔「街〜運命の交差点」に登場する七曜会は、ブランキの結成した「四季協会」にヒントを得ていると思われます。多分ネーミングだけだけどネ!あと、ブランキはパリ・コミューンの大統領に選ばれています。これ後で試験に出すね!

アンドロイドは知的存在か
 「アンドロイドを命とか知性といっていいのか」。たまにTwitterをみてると、ここに引っかかってる人が思いのほか多いみたいですよね。では皆さま、オマケコーナーのイラスト集をご覧下さい。

 カルロスの死体のストーリーボードなんですけど、上に書いてあるフレーズが本編とは違います。本編では「I AM ALIVE」ですが、こちらでは「I THINK THEREFORE I AM」です。これはおそらくイラストの方が本質、というのもこれはデカルトの「我思う故に我あり」の英訳なのです。
 デカルトは論理的に全てを疑うことによって真理を追究することを試みました。しかし、過去の知識や自分の感覚をどれほど疑おうと、疑っている自分自身の存在は否定することができません。私が考えているという事実が、自分の存在を証明している。この結論を一言に要約すると、「我思う故に我あり」となります。
 カルロスは自分のアンドロイドに対して、「お前はなにものでもない」と罵っていました。それに対して何も感じていなかった間は、確かになにものでもなかったのかもしれません。しかし、「死の恐怖」を観測した瞬間に、彼は考える存在、否定するほどに存在が証明される「なにものか」になったと言えるでしょう。そもそも「死(個の破壊・喪失)」の概念は、失われる個という概念があって初めて生まれてくるものなのですから。
 このあたりのロジックは、I AM ALIVEでは通じないところでもありますね。とはいえ、高校で哲学の授業があり、バカロレア(高卒資格試験)の一発目でサルトル-レヴィ=ストロース論争の小論文を書かされるフランス人はともかく、英語圏の人間、つーかアメリカ人あたりじゃ一発でデカルトってピンとこないんじゃね?的な配慮で外されたんでしょう。そもそも冗長ですし、全編に繰り返し登場するとしつこい、というのも否定できないところです。
 
 デカルトはまた、人間を含む動物の肉体も機械として理解しようともしています(カールが「人はかくも壊れやすい機械だ」と漏らした部分と通じますね)。例えばケガをしたとき、人は痛いという感覚や辛いという感情を抱きます。でも、機械として人体を考えたとき、それは本来「身体を損傷した」という情報でしかないわけです。痛みや苦しみ、不安というのは非物質的な意識のうちにあるものであり、物質的な肉体とは独立しているはず。この独立している二つを結びつけるのが「霊」だ、というのが、デカルトの考えでした。
 デカルトの考えに則れば、自己破壊=死を恐れる以上、アンドロイドが「ただの機械」ではなく、自我を持ち、魂と肉体の相互作用も有する、人間と同じ水準の知的存在であることはあまりに自明です。
 さらにデカルトは、人間(の魂の部分)が抱くさまざまな感情をコントロールするために美徳が重要な役割を果たすと考えました。ここまで来ると、なぜ平和ルートでなければトロフィーコンプができないのかが見えてきますね。己の感情を制御できない奴に、トロコンする資格はないのです。
 
アンドロイドらしい動き、あるいは意識と無意識の狭間
 少し前に、「アンドロイドを演じるお姉さん」として知られる高山沙織さん(TGSのデトロイトブースでもアンドロイド役を務められていましたね)の記事がニュースサイトに出ていました
 この記事を見ていてふと思い出したのが、コナー役Bryan Dechard氏の「アンドロイドらしさ」を意識した演技です。個人的に一番アンドロイドっぽさを感じたのは、実はジミーのバーのトイレの動きなんですよね。方向転換をするときに、モデルやダンサーがやるように視線を残して首を切って(体が先に方向転換して、あとから顔を動かして)いるんです。
 人間は無意識のうちに情報の取捨選択を行なっていて、例えば騒音の多いところで会話をしても思ったより相手の声を聞き取れるんですが、同じ状況で録音したものを聞き直すと全然聞き取れねえ!ってなることが頻繁にあります。一方で、高山さんやコナーの動きって、意識的に「何を見る」「どんな行動をする」という方針があって、それ以外の動きが削り取られている状態のようにも見えます。人間の動きの滑らかさ、柔軟さっていうのは、ある意味そういう雑音・無駄情報への耐性の高さなのかもしれません。
 「不気味の谷」という言葉があります。ロボットやCGなどの人工物の形や表現が人に近づいてくるとき、一定のところまでは似れば似るほど人間側がその人工物に親近感を持つのですが、ある閾値を超えた瞬間に嫌悪感を感じる“感情の谷”が生まれ、さらに人間に近づき続けると再び親近感を持たれるという仮説です。この嫌悪感の原因はある意味人間らしさと機械らしさの不調和にあるのだと思いますが(機械は機械らしさを期待されているので、人間らしく動くとそこに目がいって親近感を感じる。でも「人間らしい」機械には人間らしさが求められるので、機械らしく動くとそこに目がいって嫌悪感を感じる)、その人間らしさとか機械らしさとかを定める条件の一つに、動きにおける雑音・無駄情報の有無があるのかもしれない、と思った次第です。
 そう考えると、人間ってのはつくづく、情報処理能力の高い機械ですよねえ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?