Birth of BUFFERIN-elf 前編

最後に騒ぎと呼んでいいものがあったのはいつのことだったか。おそらく一月ほど前、どんぐり拾いに精を出していたとある若い娘が、夢中になるあまり泉に落っこちたのがそうである。
普段は主に水浴びに使われている泉で溺れるようなことは流石になかったものの、彼女はその日集めに集めたどんぐりを泉に放逐してしまうという甚大な被害を被ったのだが、これがけっこうなハプニングとして三日もの間話題を独占する森での生活において、今日この日に起きた出来事は刺激的という言葉では済ませられないほどの大事件だった。
「本当に痛くなくなった」
先ほど樹の根に足をとられた際にできたという足首の腫れをさすりながら一人のエルフが曰く、これがもうほとんど痛まないという。
その向かいに佇むもう一人のエルフは訝し気に目前の痛々しい足首を凝視している。
「本当に痛まないのか?じゃあ触ってみてもいいか」
「何故」
「だって痛くないのだろ」
「かまわないが産まれたての小鹿を扱うかのごとくやってくれ」
それは痛いからじゃないのか、とボヤきながら生来他者への気遣いと思いやりに溢れるそのエルフは言われた通り産まれたて小鹿を扱うかのごとき繊細な手つきで同胞の足首の腫れに触れた。反応がない。少し力を入れて揉んでみる。早くも依頼に背いた。にも関わらずやはり反応がない。おそるおそる視線を持ち上げてゆく。そこには同胞を咎める様子など微塵もない得意げな笑みを浮かべる、親愛なる隣人の姿があった。
「信じられない。そんなに痛そうなのに」
「信じられないのはこんなに痛そうなのにものの数秒で頼み事を無視した貴女の方だが、見ての通りだ。私自身そこまで強い力を加えてはいないが、少なくとも今ぐらいの力であればなんともない」
これ見よがしにひょいひょいと脚を上下させる。
疑いの眼差しを向けていた同胞もその光景を目の当たりにした今、彼女の言を信じざるをえなかったが、依然として怪訝な表情だけは崩そうとしない。
「痛みが消えたのは本当のようだが、そもそも何故腫れに唾を?」
何も魔法のように突如として腫れの痛みが消えうせるはずもない。本人が言うことには彼女の唾液、つまり「腫れに唾をつけたら痛みがなくなった」、と。
そのように話して聞かされた身としてはそれそのものをつい先ほどまで信じられずにいたわけだが、どうやら本当のことらしいとわかった今、未だ解せないのはどうしてそのような突拍子もない行動に及んだのか、その理由であった。
「それは………なんとなくだ」
「なんとなく?なんとなく腫れに唾をつけたのか?それはおかしい」
「…理由もなく突拍子もない行動に及ぶことも時にはあるだろう。貴女の場合は…そう、どこで覚えてきたのかわからない妙な鼻歌をよく口ずさむ。アレに理由があると言うのか」
「ある」
「あるのか」
「気分がいい時にそれを表現している。私は気分がいい時の方が多い。だからそちらもよく見かけているんだ」
「そうだったのか…いや、それも大した理由ではなくないか。だったら私がなんとなく腫れに唾をつけてみたっていいだろう」
「大きかろうが小さかろうが理由は理由だ。だが貴女のその行動には理由が見当たらない。ないということはないはずだ。頭を掻くことですらかゆいからという理由がある。よく考えてくれ。頼む」
やけに食い下がる眼前の友人にはこのように妙なことに拘りを見せる一面があることを思い出しながら、彼女は痛みがどうやって消えたかまで話してやったことを後悔した。話しづらいことを無理に聞き出そうとする者など、ここの二人はおろか森のどこにもいはしなかったが、まさか腫れに唾をつけてみた理由にそんな憂いが潜んでいることまでには気が回るまい。
話したところでそこまで深刻な事態にはなるまいし、他の者には黙っていてくれと言えば必ずそうしてくれるだろう。それでもその「理由」を話すことには並々ならぬ決意を要した。
「………二年前」
躊躇う様子を見せながら話し始めた彼女の語り出しには、それだけで続く内容を予見させる言葉が含まれていた。二年前。後に大事件となる今日の日の出来事すら霞んでしまうやもしれない、未曽有の出来事が森のエルフたちに降りかかった年である。
「あの人間が現れた時のことか?」
ようやく意を決して話すつもりになったというのに結論を急ごうとする友人を恨めし気に見つめながら少しだけこくん、と頷く。
「みんなで介抱しただろう。ひどい怪我だったし、ともすれば危うかった。最後には随分元気になったが」
その年、一人の人間が森を訪れた。住み慣れたエルフたちとは違い、人間にとってこの森はあまりにも広大で危険も多く、寄り付くものはごく稀であり、時折迷い込む者もいたが見かければ出られるように案内してやっていた。だがその人間は半死半生とも言うべき大怪我をすでに負った状態で見つかったのだ。
ひとまず自分たちの住処に人間を連れ帰ったエルフたちは、誰が言い出したでもなく介抱を行い、まともに動けるようになるまで数か月を要したものの甲斐甲斐しく人間の世話をし、回復を待ってから無事に送り出した。森のエルフ史に残る出来事であったが、それと腫れに唾をつけてみる理由に何の関係があるというのか。
「痛そうだったなあれは…何があったらあんな怪我をするのだろう。結局話さなかったな。無理に訊き出そうとも思わなかったが」
その気遣いが今回も健在であればな、と言いたくなる衝動を抑える。
「連れ帰ったばかりのころは随分苦しんでいたのに、その割りにすぐに落ち着いたのも覚えているか」
「たしかにそうだったな。随分と我慢強いものだと感心していたが」
「初日、世話をしたのは私だった。意識も朦朧としていて、自力では水も飲めないような有様だった」
「あの怪我では無理もない。だがそこまで酷かったのか。私の番がまわってくるころには動けはしないものの近づければ自分で食べ物を口にできていたぞ。小分けにはしたけども」
「…それは痛みが引いたからだ。初日はこちらで咀嚼してやらなければとても」
「そうだったのか…………咀嚼?」
「……だからある程度咀嚼してやって、移してやらんことにはだな」
躊躇いがちに、と言うよりは恥じらいがちに話す体になりつつある語り手の意を汲み取ったのか、聞き手の方は同調するかのように頬を紅潮させながら後ずさる。
「そ、そんなことを!」
「声が大きい……断っておくがやましいことはない。仕方がなかった。了承も得ていないし、あちらとて意識がはっきりしていればあまり気分のいいものではなかっただろうが…ともあれ、そうしたところ急に呻いていた人間が静かになった。顔つきも穏やかになり、後にきいたら不思議なくらいに痛みも和らいでいるようだと言う」
エルフたちが与えた食物は人間にとっては普段馴染みも薄い木の実や永きにわたって森で暮らす彼女たちの眼力すら偶に欺く多種多様なキノコ等が主であったが、いずれも沈痛作用に近い効能はなかったはずである。自分たちと人間とで効能が違うのではないか、幻覚をもたらす類のキノコがたしかあったのではなかったか、という論点は残っていたが、経験上エルフたちにとって薬になるものは人間にとっても薬になり、毒になるものは毒になるのが常であったし、かといって人間にその手のまずい症状が現れた様子はなかったので、おそらくそれらも違う。となると痛みを和らげたのは食べ物ではなく彼女が咀嚼を行ったことが原因、つまり唾液が含まれたことが要因ではないか、という推測に至った。どうやら腫れに唾をつけてみるというインスピレーションはそこから生まれたものであるらしい。
「動機はわかったが、二年間他に試す機会はなかったのか」
「別に忘れていたわけではないが大した怪我もしなかったし、そういえば、と思い起こしたのが今だったというだけだ。一応試してみたら本当に痛くなくなった」
「今までこんなことに誰も気づかなかったのか…」
「自分でさっき言ったろう…なにかきっかけでもない限りこんなことを試してみようとは思わない。まあ、それにしたってどこかで何かしらのきっかけを得ることはあってもよさそうなものだが…少しのんびりしているところがあるからな…」
「これが貴女の考えている通りだということならすごいぞ。私もよくやるが木の根に躓いたり枝から滑り落ちてどこか打ちつけてもすぐに痛くなくなるということだ。すばらしい」
世紀の大発見だ、と同胞が興奮気味に話す一方で、その様子を見ている方と言えば不思議そうな表情でその様子を見つめるばかりで、少しの間はしゃぐ同胞を眺めていたが、やがて仕方のない人だな、とでも言いたげに口を開いた。
「もちろんその時居合わせていれば力になってやれるが、四六時中共に過ごすわけではないのだからいつでもすぐに、というわけにはいかんぞ」
もっと喜ばないのか、と気にしていた同胞が突然思いもしない言葉を口にしたのを機に落ち着いたのか、はしゃいでいたエルフはこれまた不思議そうな表情で彼女を見つめた。
「無論わざわざ貴女の手を借りることもない。唾くらい自分でつける」
「…?そんなことをしてどうする?」
「…?どうするも何もそうしたら痛みが引いたんだろう。私もやってみる」
ああ、そういうことか、と合点がいったらしく世紀の発見者は笑いながら言った。
「やってみるのはいいがあまり期待しない方がいいと思うぞ。誰にでも備わっているものとは思えない」
そう言って朗らかに笑う彼女に対し、先ほどまで浮かれていたエルフは見覚えのある怪訝な表情を取り戻している。信じられないものを見るエルフの顔。

「…………いや、どう考えてもこれは我々種族固有のものだと思うぞ」

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