愚者と魔女

 ────何故、私を解き放った?

 自身と眼前の女は隔絶した種である、と知らしめるような存在感という形で放たれたその熱量は、まさしく己を、愚かな誘蛾を焼き尽くす炎のそれであった。



 旧くから伝わる伝説、伝承、そうした類の人々に広く伝わる話の中には一種の警句、戒めを伴うものが少なくない。

 その中には君子危うきに近寄らず、という言葉の指すところを様々な例示とともに語る──例えるなら蝋で形どられた翼によって太陽を目指し、その太陽に近づいたばかりに、もたらされる熱によって翼を奪われ、地に墜ち、死に至る──と言ったような、様々な無謀による末路をもって締めくくられる類の言い伝えないし御伽噺に近い物語が存在する。

 男は蝋で翼をこさえることこそしなかったが、そうした語り草にはある種の共感をおぼえていた。

 焦がれるほど強く求める何かの前ではいかなる賢者も愚者に成り下がり、強く焦がれる愚者の前ではいかなる危険も、それによる忌避も、短慮の後塵を拝することになる、という確かな実感を得ていたからに他ならなかった。

 男は───今まさに、余人の間では「神の御座」「不可侵の領域」と称される”聖域”を、新雪を一歩一歩踏みしめる童のような心もちのまま、属するものこそ違えど一神官という顔を持つにも関わらず、喜々として侵している。

 

『法王庁禁忌管理局』


 内情を知るごく限られた人間のみが出入りを許され、一切の部外者に対して門戸を固く閉ざすその場所は、あろうことか蛮族ではなく人間の、それも法王庁の名の下に封じられた数ある二つとない”法具”を目的としたものではない、およそ理外の侵入を許していた。

「部外者、という枠組みの中では下手をすると俺が唯一の来訪者か。思い上がるつもりはないが、どうにもこみ上げるものを抑えられんな」

 そう呟く口ぶりにはまるで危機感というものが感じられない──わけではない。尋常ならざる状況下に己の身をおく危機感、焦燥感に急き立てられながらもなお昂揚が勝る、歪に吊り上がる男の口角はそうした心中を雄弁に語っている。

 当然ながら視界に入るもの全てが未知である。施設として機能している以上「前人未踏」は誇張がすぎるとは感じていたが、自身にとって未踏、未知であれば些末な事実であった。

 目的そのものではない、と前置いたにせよ、厳重に保管された”法具”に興味が湧かないというわけでは決してない。”彼ら”もまた大いなる昂揚の支えとなる景観の一部であることは間違いなかった。だが、これほどの危険を冒して得る報酬としては、男にとっては些か不足であることもまた否めないところである。

 本人は知る由もなかったことだが、男の到達箇所はすでに管理局にとってもっとも侵入者の接近を避けたいエリアの近辺にまで至っていた。内情を調べようにもその機密の管理体制はこうして自身の侵入を許したことが信じられないほどに強固であり、前もった地理は皆無に等しい中でよくここまでやっていると思わず自賛したくなるほどだ。

「ここまで深入りしてからに、入ったはいいが出る算段はとうに失せたらしい。まったく度し難いにもほどがある………こんなものはもう自省とすら呼べんだろうが…………」

 自嘲かはたまた気を紛らすつもりか、独り言を続けていた男は、明らかに周囲の気配が一変したことを感じ取ったことで思わずそれ以上の無駄口を自ら制した。

 

            これ以上は まずい


 これまでの、理によるそれではなく本能に訴えかける忌避感。

 自身の鼓動がまるで第三者のように退き返せ、と促している。

 具体的に何を目前にしたわけでもない。強いて言うなら、一室。

 そう、一室。

 

 

 あそこだけは やめておけ


 

 わかっているんだろう あそこだ


 

 相反する声が頭の中で一瞬のうちに交差する。多重人格でもあるまいに、と思わずこぼしそうになりながら、男は、逡巡の素振りさえ見せずに後者に従った。

 この男、シェゾ・カーナシオ・ヴァイラヒにとってはあまりにも当然と言うべき帰結。


 室内は、どこか荘厳な気配で満ちていた。宝物庫の中で宝物庫にたどり着いた、とも言うべき感覚。そして、室外で襲ってきた忌避感。それら全ての根源。

 室内の中央に座した鈍色の球体。正確には、その中身。

 注意深く観察すれば、この部屋やこの球体についての情報を周囲から得ることもまた可能であったかもしれないが、今やシェゾにそれは期すること到底叶わぬものとなっていた。

 今、彼の思考力の大半を奪い去った「中身」への好奇心は、どうやって封を解くのか、という命題を突きつけそれのみに思考力を注ぎ込むことを許していたからに他ならない。

 時間に猶予はない。こうしていつまでも己の暴挙が許されるはずもない。それでもこれをあらためないまま引き下がるということだけはありえない。見たい。知りたい。これが何を封じているのかを。

 焦りと熟考にならぬ熟考の中で、不完全ながらも導き出した結論は「外部からの干渉に対しては脆弱である、ということに賭ける」

 さもありなん。要するにやけっぱちであったが、ところがどうしてものは試し。少なくともこの場に限っては。封じられた者の力を抑える機構に特化していたそれは本来、干渉そのものを想定していなかった。

 それもそのはず、この法王庁禁忌管理局全体、とりわけこの一室には蛮族の干渉の一切を拒絶する強固な結界が築かれていたからであり、その最大の不運はこうして部外者の、しかも人間にここまでの侵入を許し、言ってしまえばただの好奇心で装置を手にかけるなどという異常事態に対しては無力であったことだった。

 中身がなんであれ、台無しにしては元も子もないという慎重さの下で加えられた神聖魔法の一撃は拍子抜けするほどあっさりと装置の外殻を吹き飛ばし────無惨にも、長年にわたって封じ続けた存在を引き摺り出した。


 女だった。だが人間ではない。


 外見的特徴からの判断ではなかった。シェゾはどこか朧気に、この聖域に足を踏み入れた瞬間から幻視していた、自らが誘蛾に成り果てた末に炎に身を投じ灰と化す、そうした予感(イメージ)をより強く呼び起こされていた。

 炎の正体はここそのものだとばかり、自虐が過ぎるな、と感じていたがそうではなかった。この女だ。現に俺は。

 気がつけば、生死すら定かではない、ぴくりとも動かない女に近づき、その身体へと手を伸ばそうとしている。

 長きにわたり、それもこちらの想像もつかないほどの年月を、この場所で封じられたままでいることを余儀なくされていたのだろう。本来であれば、とは言っても想像に任せるしかないことだが、整えられたその姿はどれほどのものであったろうか、そう思わずにはいられぬほどの、若い女にしてみれば痛ましい有様。それでいてなお、女には人外の、シェゾにとって未知の美しさがあった。

 一体自分がこの女をどうするつもりなのか、そんなことすらおぼつかないままに触れようとして、


「───死体漁りとは感心しないな」


 心の臓を吐き出す錯覚とともに反射的に後ずさる。

 女はすでに閉じていたはずの瞼を開いていた。

「生憎、私は死とは縁遠い。アテが外れたのなら気の毒だったな、人間………………人間?」

 自ら放った言葉を吟味するように、女ははて、と小首を傾げながら何やら思案しているようだった。

 シェゾはと言えば───いよいよ己の愚かさにもここにきて愛想が尽きた心地になっていた。生きていた。終わった。助からない。

 自制心の喪失ぶりからこのような暴挙に出たとはいえ、神官としての力量に自信がないわけではない。事実彼の力は厄介極まることに様々な事情からそこらの冒険者とは比較にならぬレベルに達していた。

 そしてまた、眼前の女はそんな自分とは比較にならない領域の住人であると確かめるまでもなく思い知らされていたのだった。そして思い知らされるあまり、わかりきっていても問わずにはいられなくなってしまったのだ。それは藁を掴もうとしたのか、あるいはただの確認か。


「人間が何故私を解き放った?」

「俺を殺すのか?」


「……私に殺されるのがおまえの望みなのか?」

「……いや、そんなことはない」


「………ではおまえの望みはなんなのだ」

「………それはおまえに対しての、ということか?」

「そうだ。ないということはなかろう」

「何故そうなるのかはわからんが、特に思いつかんが」


「………………では、何故私を解き放ったのだ」

「………………封じられているものが………」


「何?」

「中身が見たかったからだ」


「…………………………」

「…………………………」


 

「………おまえ、正気か…………?」

「………そのつもりだったが………自信がなくなってきたな…………」



 炎から逃れる蛾と、蛾に誘われる炎。

 男の人間と、女の不死者。

 

 ありえざるもの二つ、交わらざりしもの二つ、その運命が動き出す。


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