「ママ」と呼べなくなった日、わたしは「お母さん」になった
「・・・ぁ・・・っ・・・ママ」当時2歳半だった次女が”ママ”と言えなくなった日、わたしは泣いた。生きていて、こんなに胃を締め付けられるような…呼吸をするのがこんなにも苦しいと思う日が来るなんて思ってもみなかった。
今から8年前の話。長女5歳、次女2歳半、末っ子0歳。
上の子は幼稚園に通っていて、末っ子は産まれたばかり。何度も夜起きる末っ子と、末っ子の泣き声で起きてしまう次女。当時公立の幼稚園に通わせていた長女の送迎は、片道30分。末っ子を抱っこ紐に、次女をバギーに、まだ5歳の長女がグズグズ言わないよう、しりとりをしたり葉っぱを拾いながら歩いていた。長女の送迎が終わると、30分かけて歩いた道を、また30分かけて帰る。
とにかく疲れていた。
幼稚園の準備や用意するもの、送迎。生まれたばかりの末っ子のお世話。手を抜けるのは、次女の育児だったのかもしれない。イヤイヤ期とはいえ、小さい頃からおとなしかった次女のことを、私はしっかり見てやれていたのだろうか。今思い出しても記憶が曖昧で、だけど鮮明に覚えているのは、いつも私の後ろを「あのね〜」と言いながらついて来ていたことくらい。
子育てから逃げ出したい
保育園に預けて働きたい
そんなことをいつも思っていた。そして、子供達にとっていい母親を演じられているのだろうか?私は子供を愛せているのだろうか?そんな思いを日々抱えていた。
明けない夜はないとか、やまない雨はないという言葉は響かない。
雨の中でずぶ濡れになっているとき、傘をさした誰かにそんなこと言われたら「お前も濡れてみろよ」と傘を奪い取ってしまうかもしれない。
次女の吃音が発覚したのが、ちょうどその頃。休日に家族で水族館へ行った夜。
子供達を寝かしつけるとき、その日一番子どもたちが楽しかったことを聞いたり、話たりするのが私の日課だった。寝る前に楽しかったことを話したら、楽しい夢を見れるのかなぁ?そんなことを思いながら、その日もお布団の中で「水族館にどんな魚がいた?」という話をしていた。
言葉が遅かった次女のことを「あなたが日頃しっかり話かけていないのが原因なんじゃない?」と言われたのも気にかかっていたので、次女には特にたくさん話しかけていた気がする。
「マンボウもいたね!」
「・・・っ・・・・あーーーーー・・・マンボウ」
「小さいメダカさんも水槽の中にいたよね!」
「・・・ぁ・・・・・・・・メ、メダカ!」
忘れもしない。この日から次女の吃音が始まった。
地域の子育てセンターへ駆け込んでも「様子をみましょう」の一点張り。それと同時に、誰かに吃音の次女を見られるのが恥ずかしいと思ってしまい、毎日通っていた公園にも行かなくなってしまった。最低だと思う。
私は本当に子供を愛せていたのだろうか。
そしてついに「ママ」という単語も出づらくなってしまった。「マ行」が出にくいというのは、何となく気づいていた。
2歳半くらいの子が1日に最も多く発する単語は「ママ」とか「お母さん」だと思う(パパが主に育児を行なっている場合は「パパ」)。私は20代前半で結婚、出産をしたので「ママ!」と呼ばれるたびに、ちょっと恥ずかしくてむず痒いような、でも「私はこの子達のママなんだなぁ」と一時期、無性に嬉しくなる時があった。
でも「ママ」という言葉は、次女には出しづらく、苦しそうに発声するしかない鬼門のような言葉なのだ。
たくさんの単語がある中で、なぜ「マ行」が出しづらいのか。「マ」が2回も続く「ママ」という言葉は最悪の組み合わせだったと思う。
このときの私の気持ちや感情を表す言葉は、いまだに見つからない。吃音の次女と話をするのが辛かった。苦しそうに言葉を発する次女を見ていると、こちらも呼吸が止まりそうになる。息苦しい。
「今日から、ママのことを”お母さん”って呼んでくれると嬉しいな」
ママと言うのに苦戦している次女を見て、思わず口に出た言葉。私は言いながら泣いていた。なぜこの子は「ママ」と言えないんだろう。ママと言うと苦しそうに顔を歪めるのだろう。
私は、この子を愛せているのだろうか。
20代前半で家庭に入った私には夢があった。”子育てがひと段落したら、広告会社に就職してバリバリ働きたい”
でも、諦めることにした。この子が小学生になったとき、家にいて心のケアをしてあげたい。学校で辛いことがあったとき、辛くて休みたくなったとき「今日は休んじゃおう!」と明るく言えるお母さんになりたい。
だから私は在宅で働くことを選んだ。仕事は自分で取ってきたし、頭もたくさん下げてきた。子供達のためならば!と、がむしゃらに働いていた。気づいたらそれはどんどん大きくなって、会社を作ることができた。
私がそうであったように、いま現在もそう思っているように、主婦は家族や子供のことを考えなくていいと言われても、無視しようと思っても、考えてしまうものなのだと思う。そして、そんな思いを抱えながら、働くのだと思う。
人の痛みを解ること、理解するのは無理かもしれないけれど、想像することはできる。そんな会社でありたい。そして社会を変えていけるようなサービスを作って、今の子供たちが過ごしやすい社会にしていきたい。
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次女が小学校低学年の頃「国語の本読みができない」と先生から連絡が入った。
私は、人と同じことができない次女のことを、恥ずかしいと思わなくなった。できないのなら、無理にしなくていい。辛いなら逃げたらいい。
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吃音が発覚してから8年。
今では国語の本読みもできるようになったし、「ママ!」と笑顔で呼んでくれます^^いつかまた吃音が出るかもしれないし、出ないかもしれない。未来のことは分かりません。
「ママ」と呼べなくなった日、私は「お母さん」になりました。私の仕事は「子供たちのお母さん」です。
お母さんて何をするのが正解なのかまだ分かりませんが、仕事をしながら、家事をしながら、いつもただひたすらに子供たちの幸せを願っています。
私は、子供たちを愛せていると思う。
おしまい。
*Twitterで、小学5年生になった次女が弾くピアノの動画をアップしたところ、多くの方から反響をいただきました。
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