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プーチン大統領「協力が重要」 旧ソ連諸国首脳に訴え~米国が産み出したウクライナ戦争~【日経新聞をより深く】

1.プーチン大統領「協力が重要」 旧ソ連諸国首脳に訴え

ロシアのプーチン大統領は26日、旧ソ連諸国で構成する地域協力機構「独立国家共同体(CIS)」の非公式首脳会議をサンクトペテルブルクで開催した。旧ソ連諸国にロシアと距離を置く動きが広がる中、プーチン氏は会議の冒頭で各国の協力を訴えた。

非公式首脳会議にはベラルーシのルカシェンコ大統領やカザフスタンのトカエフ大統領ら10月の首脳会議と同様のメンバーが出席した。公開された冒頭発言でプーチン氏は地域安定や安全保障について「残念ながら、加盟国の間で意見の相違があることは認めざるを得ない」と懸念を示し「重要なのは我々が備え、協力していくことだ」と訴えた。

今年秋にはキルギスとタジキスタンの国境衝突が発生したほか、アルメニアとアゼルバイジャンの紛争地でも戦闘が発生し死傷者が発生した。キルギス政府はロシア主導の軍事同盟「集団安全保障条約機構(CSTO)」に介入を求めたが、CSTO側は交渉で解決するとの対応にとどまり不信感を招いた。長期化するロシアのウクライナ侵攻を巡っても、同盟国であるベラルーシを除きロシアと距離を置く動きが目立っている。

ロシアのペスコフ大統領報道官は26日、ロシア、アルメニア、アゼルバイジャン首脳の3者会談などについて「予定されていない」と記者団に述べた。加盟国間の不和が目立つ中、緊張緩和をはかれるかが課題になっている。

CIS創設はロシアとウクライナ、ベラルーシの3カ国首脳が1991年に宣言した。旧ソ連15カ国のうちバルト諸国を除く12カ国が加盟していたが、ロシアとの紛争が起きたジョージアが2009年に脱退。14年のロシアによる一方的なクリミア併合を機にウクライナも事実上、脱退した。

(出典:日経新聞2022年12月27日

プーチン大統領は旧ソ連の国々との連携を強めようとしているようです。ウクライナ戦争に至るまでの道を見ておきたいと思います。

2.ソビエト崩壊後のウクライナ

ウクライナ共和国はソビエト崩壊によって独立しました(1991年)。しかし、政治は策謀に満ち、腐敗したもので、かつ経済は低迷していました。そして、政治は親EU派と親ロシア派が対立する構図となりました。

ウクライナも共産主義体制の崩壊で秩序が乱れ、経済的混乱は目を覆うばかりでした。その混乱はおよそ10年続くこととなります。ソビエト崩壊後わずか7年でGDPは60%も落ち込みました。まさに国民は食べ行くだけで精一杯という状態です。何もかもが不足した状態のため、価格統制もできませんでした。その一方で国営の農場や工場には支援が続きました。

放漫な金融緩和策はハイパーインフレ―ションを生み出しました。1993年には物価が100倍にもなる有様でした。新通貨フリヴニャの導入(1996年)でようやく沈静化に向かい、2000年には年率7%成長を遂げるまでに回復しました。しかし、2008年のリーマンションからの世界的な不況でそれも再び低迷してしまいます。2008年の11月、IMF(国際通貨基金)は165億ドルの与信枠(スタンバイローン)を組みウクライナ支援を余儀なくされました。

ウクライナの経済事情はソビエト崩壊後とほぼ同じで、新興財閥が勃興しました。ロシアではプーチンが登場し新興財閥を制御しましたが、ウクライナではそれはありませんでした。その為、新興財閥は20年以上にわたり、好き放題の経営を進め、官僚は賄賂をむさぼったのです。

こんな状況の中、2004年の選挙を迎えました。この年の選挙は実質、現職ヴィクトル・ヤヌコーヴィチとヴィクトル・ユシチェンコの戦いでした。ヤヌコーヴィチは親ロシア派、ユシチェンコは親EU派でした。ユシチェンコはこの数カ月前にダイオキシン(毒性の高い化学物質)で命を狙われるということがありました。選挙の結果は現職のヤヌコーヴィチが勝利しましたが、不正選挙が疑われ、国内外から組織されていた監視委員会も不正があったと認めました。

2004年12月、選挙結果に納得できないユシチェンコ支持者(ほとんどがウクライナ系)は抗議行動に出ました。キエフの町にあふれた人々は非服従運動を訴えました。これがいわゆるオレンジ革命の始まりでした。抗議活動は全国に広がりましたが、暴力的なものではありませんでした。非服従、座り込み、ゼネストといった抗議手法がとられました。活動資金は、数あるNGOグループが西側から得ていました。

ウクライナ最高裁はこの月、再選挙を命じました。選挙は再び監視委員会が見守る中で実施されました。選挙では親EUのヴィクトル・ユシチェンコが勝利しました。オレンジ革命は国民革命だと言われるようになりました。しかし、その資金は西側から出ていたのです。

勝利したヴィクトル・ユシチェンコは6年間の任期を全うし、ロシアは干渉しませんでした。プーチンはこれらの一連の騒動は静かに見守っていました。

2010年の選挙では前の選挙に出た二人に加え、EU派の首相のユーリア・ティモシェンコが参戦しました。彼女の参戦で親EU派は割れました。第1回投票でヤヌコーヴィチが多数票を取り、決選投票でもティモシェンコを破った、新ロシア派の大統領が誕生しました。

ヤヌコーヴィチの外交は西側諸国とロシアからの援助を天秤にかけるスタイルでした。2013年末には経済危機に陥りましたが、ヤヌコーヴィチはロシアとの協定を結ぶことで難局を乗り切ろうとしました。ところが、その親ロシア政策に抗議する群衆がマイダン広場(キエフ)に集まりました。これが暴動に発展し、ヤヌコーヴィチ政権は倒されました(マイダン革命)。新政権の外交は再び西側にシフトしました。

3.マイダン革命とは何だったのか

米国はマイダン革命を好意的に報道しました。

「国民はその日の食料にも苦労しているなか、大統領(一族)は贅沢な生活におぼれている。それにうんざりした国民が革命を起こした。国民はEUに加盟すれば未来に希望が持てると考えている」

しかし、現実はそれほど簡単ではなく、もっと複雑でした。たしかに西側メディアの分析は一部真実ではありました。ヤヌコーヴィチは専制的で、国家資産と税金の上に胡坐をかいていました。外国からも経済援助で私腹を肥やすことも平気で、彼に近しい人はその分け前にあずかるという構図でした。

国民の多くがEUとの連携を望んでいたことも事実でした。そのような中、ヤヌコーヴィチ政権は、検討されていたIMF及び世界銀行からの借款(総額24億ドル)計画を棚上げしました(2011年)。この借款が実現したら、ウクライナとEUの関係はきわめて強固になると見込まれていました。しかし、逆にロシアとの関係悪化は確実となります。しかも、退職公務員や老齢年金のカットが借款の条件となっていただけに国内政治が不安定化する可能性もありました。

ヤヌコーヴィチはロシアから、IMFと世界銀行からよりも有利な条件での借款の道を探りました。しかし、それには失敗。そして、再びEUに接近しました。2013年にはEU加盟を目指すことを決め、EUからの協力を前提にIMF融資を再検討しました。当時のIMF担当理事クリスティーヌ・ラガルドは、ヤヌコーヴィチ政権に徹底的な財政改革を進めることを要求し、金融政策およびエネルギー政策の見直しも融資の条件としました。

ヤヌコーヴィチはこの条件を了承します。2013年9月、ウクライナ国会議長は、EU加盟に必要な国内法改正の作業はもうすぐ終わるとヤヌコーヴィチに伝えました。反対する政党は共産党だけでした。

しかし、ヤヌコーヴィチは二つの難題を抱えていました。一つは、EUがヤヌコーヴィチの政敵ユーリア・ティモシェンコの解放を要求していたことです。それがEU加盟の条件となっていました。彼女は選挙戦の後、横領罪(1億ドル)で収監されていました。もう一点はEUからはすぐにでも金融支援が必要で270億ドルを要求していましたが、EUのオファーはわずか8億3,800万ドルでした。

ウクライナにはとにかくお金がありませんでした。外貨準備も尽きかけていました。新通貨フリヴニャの価値も大きく下がり、フィッチ・レーティングス(英国の信用格付け会社)は、ウクライナの格付けをBマイナスからトリプルCに下げていました。ウクライナはどこかから資金を調達できなければ財政破綻寸前の状態でした。

2013年11月、リトアニアで開かれていたEUサミットの場で連合協定にサインすることになっていました。ヤヌコーヴィチも、「ウクライナは自らの改革し、西欧の国々と協調していかなくてはならない」と語っていました。

ちょうどその頃、旧ソビエト構成国による独立国家共同体(CIS)の会議がサンクトペテルブルクで開催されました。議題は貿易の活性化でウクライナ首相も出席していました。ロシアはこの会議でウクライナに外交攻勢をかけました。CISとの経済連携の強化を訴え、負債支払期限の延長、天然ガスの割引価格販売の再開を表明したのです。もちろんEUへの参加を取りやめることが条件でした。

この会議終了後、ロシアはウクライナ国債150億ドルの買い付けも決めました。買付に当たっては何の条件も付けませんでした。内政改革の条件もありませんでした。組織的な腐敗の横行するウクライナにとっては魅力的なオファーでした。

ロシアの攻勢はこれだけではありませんでした。2013年の8月、ロシアはウクライナの産物のほぼすべてを危険物に分類して、ウクライナ製品をロシア市場から締め出していました。ロシアはその制限の解除をほのめかしました。ロシアはプーチンが主導した共同経済圏(ロシア、ベラルーシ、カザフスタン)を作り上げていましたが、ウクライナが望めば、他の二か国との交易も拡大する可能性まで示唆しました。

これを受け、ヤヌコーヴィチは最後の場面でEUとの連合協定調印を取りやめ、再びロシア側につくことを決めました。この背信に、ウクライナ参加を祝うパーティーまで用意していたEUは驚きました。EUはそのまま黙っているわけにはいきませんでした。これが、「マイダン革命」の裏事情だったのです。

西側のプラパガンダ活動も活発化しました。米国メディアは、「(EUとの調印を拒否したことに反発した)反政府運動は、勇気ある、武器を持たない市民による抗議活動である。ヤヌコーヴィチ政権は国民の支持を失った」と報道しました。確かにヤヌコーヴィチは独裁的で不人気でした。しかし、それでもヤヌコーヴィチは選挙によって選ばれた指導者でした。

実は抗議運動も自然発生的に起きたものではありませんでした。米国とEUはウクライナをロシアから離間させる工作を続けてきていました。ウクライナを反ロシア国家にすることが西側の外交目的だったのです。ヤヌコーヴィチの背信を受けて、米国は50億ドルを使い翻意を促しましたが、失敗しました。ウクライナ政局をますます混乱させただけだったのです。

この失敗は米国自身が認めています。当時の米・国務省次官補ヴィクトリア・ヌーランド(ヨーロッパ・ユーラシア担当国務次官補)の言葉と行動を見ればそれが分かります。

12月半ば、ヌーランドは米国がいかにウクライナの民主化に力を注いできたかを自慢したことがありました。「数十億ドルの金銭的支援だけでなく、5年もの間、民主化の準備作業を後押しした。ウクライナ国民が民主主義を学び、民主主義国家を建設するために米国は支援を惜しまなかった」と述べました。この後、彼女はヤヌコーヴィチ大統領と2時間にわたり会談し、EUとIMFとの交渉を再開することを要求したのです。それでもヤヌコーヴィチは米国の要求を聞き入れませんでした。米国がマイダン革命を支援したのはそのためだったのです。

2013年11月末、欧州委員会委員長は、「ロシアが、EUとウクライナの約束を反故にさせるようなことは許さない」と語りました。

EU加盟が実現しなかったことに憤った群衆はキエフの町に繰り出しました。それを煽ったのはフロマツケ・テレビ局でした。米国資本の入ったインターネットテレビ放送局です。

キエフの群衆は数百、数千と数を増し、警官隊と衝突しました。親EUの外交方針に舵を切り直せという主張が、いつの間にか政権交代を要求する声に変わりました。双方を狙った狙撃事件が起きましたが、衝突をエスカレートさせる意図のある行為でした。群衆が政府の建物を選挙するに及んで、ヤヌコーヴィチは国外に脱出しました(2014年2月)。暫定政府が組織され、ペトロ・ポロシェンコが大統領に指名されました。彼は菓子の製造で財を成した実業家で「チョコレート王」と呼ばれていました。

ウクライナのこの騒動は西側諸国とロシアとの代理戦争でした。米国による「悪人対善人の戦い」という公式説明には無理がありました。追い出されたヤヌコーヴィチ大統領は民主主義的手続きをを踏んだ選挙で選ばれた大統領だったのです。その大統領を暴力的に追い出すことに手を貸したのが米国でした。

それでも西側メディアは、この蜂起は、独裁者を追放し民主主義を実現するための市民革命だと報じました。しかし、その報道には明らかな嘘がありました。メディアが報じた「勇敢なる市民」の中には怪しい輩もいました。1930年代を想起させる過激なスヴォボダ党のメンバーが紛れ込んでいたのです。その中の一人は、ヨーゼフ・ゲッペルス政治研究所創立のメンバーでした。(ゲッペルスはナチスドイツの宣伝相)。彼らは反ユダヤを標榜していました。

しかし、米国は、ネオナチ・グループが革命に関与していることには目をつぶりました。ジョン・マケイン上院議員(共和党アリゾナ州)がウクライナを訪問したことがありました(2013年12月)。これは国務省のお膳立てで実現したものでしたが、完全な失敗でした。マケインはスヴォボダ党党首のオレフ・チャフニボクと同席してしまったのです。チャフニボクはナチス式敬礼が平気でできる人物で、「モスクワに巣食うユダヤマフィアと戦え」と国民を煽動し、政府には「ユダヤ人犯罪組織をつぶせ」と要求していました。

国務省とネオナチグループとの関係は一般には知られてはならないことでしたが、アメリカ政府にとって彼らは便利な存在でした。国務省の高官だったヴィクトリア・ヌーランドはヤヌコーヴィチ追い落とし作戦をオレフ・チャフニボクと打ち合わせていました。もちろん対外的には、「民主主義の考え方を教え、民主主義組織の作り方を協議した」と説明していました。

しかし、彼女が電話で話したことが外部に漏れてしまいました。彼女は「(ネオナチの)チャフニボクは政権の外に置くが、これから選ばれる大統領とは週に4回は会談させる」などと語っていたのです。選ばれる大統領はもちろん、米国が承認する人物でなくてはなりませんでした。

米国主要メディアはこの政権交代劇の裏の部分は伝えていません。この件について報道したのは「サロン」誌でした。(2014年2月15日:Is the US backing neo-Nazis in Ukraine?/米国はウクライナのネオナチグループを支援しているのか?)

「ウクライナの反政府運動は今週大きな盛り上がりを見せた。その中でファシズムを標榜するネオナチ・グループの活動は無視できないほどに活発だ。群衆は、独立広場に集まり、警官隊と衝突し、『腐敗した親ロシア大統領ヤヌコーヴィチを追放せよ』と要求しました。極右の行動派は、『ウクライナの人種的純潔を守れ』とも主張していた」

「選挙されたキエフ市役所には、ウクライナ旗と併せて白人至上主義のシンボル旗も持ち込まれた。ひっくり返されたレーニン記念碑の周りではナチス親衛隊旗や白人の力をシンボル化した旗が振られた。大統領がヘリコプターで宮殿から脱出すると、かつてナチスと戦ったウクライナ人を顕彰する記念碑は破壊されました。広場では、ナチス式敬礼をする者、ナチス党旗を振る者がいたるところで見られた。ネオナチ・グループはキエフ周辺で自治区的な空間まで作り上げた」

実際に、暫定政権では、スヴォボダ党員が4つの要職を占めました(副首相、農業相、環境相、司法長官)。

EUは内政改革を求めました(2013年)が、改革は進まずウクライナの新興財閥は昔どおりのやり方でビジネスを続けました。新政権が親EUになったとしてもウクライナの腐敗は変わりませんでした。

新興財閥のメンバーも暫定大統領に「チョコレート王」のペトロ・ポロシェンコが就きましたが、彼のビジネスの成功のきっかけは国家財産民有化の過程できわめて安価に国家財産を手中に収めたことにありました。とてもIMFが求める内部改革を断行できるような人物ではありませんでした。

ウクライナ人ジャーナリストのアンドり・スクーミンは次のように書いています。
(ウクライナウイークリー/“The Return of the Prodigal Son, Who Never Left Home”/家から出なかった放蕩息子の帰還)

「西欧側は親EUの考え方を持つ人物をウクライナの既存勢力の中から見つけようとしている。彼らはペトロ・ポロシェンコを信用できると考えているようだ。彼なら必要な改革を断行し、EU・ウクライナ関係を大きく前進させる。そう期待している。しかし新興財閥圏の独占的経済力を温存したままで西側とのスムーズな統合など期待できない。国内改革も難しい。おそらくポロシェンコにできるのは外面を取り繕うことだけであろう」

4.クリミア併合とは何だったのか?

フルシチョフがクリミア半島をウクライナに返したのは1954年でした。この返還に実質的な意味はありませんでした。当時はソビエト連邦がバラバラになるなどと想像できる者は一人もありませんでした。実はこの返還にあたってフルシチョフは法律違反を犯していました。返還の是非についてはソビエト連邦最高裁判所の行政委員会で検討されたうえ、最終的には国民投票(レファレンダム)によって決められる手続きが必要だったのです。確かに行政委員会は返還を満場一致で可決していました。しかし問題は採決に必要な定足数が不足していたのです。60年後にこの法的手続き違反を指摘したのがプーチンでした。

マイダン革命はプーチンにとって複雑な状況でした。ウクライナがNATO(EU)に近づくことは問題ですが、その一方でウクライナは金食い虫という現実がありました。ウクライナは問題児。この問題児をロシアに悪影響無く引き受けてくれるならばというのが本音だったのではないでしょうか。

マイダン革命後、ロシアはウクライナ政策をドライに転換しました。ロシアのガスプロム社はウクライナに対して債務返還を迫り、安値販売も止めました。ガス価格はすぐに倍になりました。ウクライナは市場価格での購入を余儀なくされ、支払には西側諸国からの借入金があてられました。

ただ、プーチンはクリミア半島の軍港だけは手放せませんでした。セヴァストボル軍港はロシアの絶対的管理の下に置かなくてはなりませんでした。プーチンはまずセヴァストポル駐留軍に警戒態勢を取らせたうえで、軍港周辺に戦闘態勢の整った軍を新規に派遣しました(ただ、プーチンはこのことを否定しています)。クリミア議会がウクライナからの分離を決議するとそれを歓迎し、同地での国民投票の採決を待ちました。

ロシア系住民が多数派を占めるクリミアがロシア帰属を決めたことに誰も驚きはありませんでした。クリミアがロシアに帰属しないのであれば、クリミアに住むロシア系住民は米国が糸を引くクーデターを受け入れなければなりませんでした。彼らはキエフの暫定政権にロシア系住民を嫌う勢力が入っていることを知っていました。ファシズムを信奉する連中が紛れ込んでいることも分かっていました。キエフではロシア系住民が殺されていました。クリミアのロシア系住民がロシア帰属を選択することは必然だったともいえます。

クリミアのロシア帰属決定プロセスは迅速かつ平和的でした。キエフでの革命には流血がありましたが、クリミアでは一滴の血も流れていません。西側諸国はクリミアのロシア帰属決定プロセスを強く非難しましたが、プーチンはまったく動じていません。クリミアはロシアに帰属すべきであるというプーチンの信念は西側の抗議も制裁も、ロシア孤立化政策もその効果は限定的となりました。

しかし、この後、キエフの政権から東部ウクライナでのロシア系住民が攻撃されることとなり、2022年2月24日ロシアによるウクライナ侵攻へとつながっっていったのです。

米国が今のウクライナの混沌を生んだことは間違いありません。ただ、誰も戦争の長期化を望んではいないはずです。米国のネオコンを除いて。ここに至るまでの事情を知らずにロシアを一方的に責めている日本政府やマスコミ。しかし、ここに誘い込まれたのはむしろロシアなのかもしれません。

未来創造パートナー 宮野宏樹
【日経新聞から学ぶ】

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