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DREAMLAND 制作にあたって

2013年の中頃、私はこの作品の準備を始めました。幾何学アニメーションシリーズ「MODERN」「MODERN No.2」に続く作品として、「MODERN No.3D」というタイトルで、企画書とイメージスケッチを描き始めました。タイトルに「3D」と入っているのは、前年に映画祭で観た、NFBの抽象アニメーションの立体視作品(特に、セオドア・ウシェフの作品)に触発され、自分も立体視の作品を作りたいと考えていたからです。

2014年2月に、企画書を概ねまとめ、フランスの映画製作のレジデンスに応募をしました。しかし、作品の背景になる確固たるテーマが見つかっていなかったため、企画は通らず、再度練り直すことになりました。

同年の6月、アヌシー国際アニメーション映画祭で、「WONDER」がCANAL+Creative Aid賞を受賞し、フランスのテレビ局であるCANAL+が次回作の製作支援をしてくれることになり、止まっていた企画を本格的に再スタートさせることになりました。

「テーマパークのような抽象アニメーションを作りたい。」これが企画当初からずっと頭の中にあったものです。様々なアトラクションに次々と乗っていくような、抽象アニメーションによるエンターテイメント性を追求したいと考えていました。しかし、単にエンターテイメント性を追求するだけでは作品として物足りないと思い、核になるテーマを探して、しばらく企画が進まない時期が続きました。

2014年11月、参加した新千歳空港国際アニメーション映画祭で、ゲストで来ていたスカルラッティ・ゴーズ・エレクトロという電子バロックを演奏する二人組のミュージシャンと出会いました。彼らの音楽は、エレクトリカルパレードのようで魅了されました。企画開発は全く進んでいませんでしたが、「テーマパーク」を題材にした作品には、彼らの音楽が必要だと思い、映画祭の期間中に岸野雄一氏に二人を紹介してもらい、音楽を作ってもらう約束をしました。
※実際に、エレクトリカルパレードの原曲である「バロック・ホウダウン」を生み出した、電子音楽界の巨匠ジャン・ジャック・ペリーは、二人の才能を絶賛しています。

それから半年後の2015年6月、テーマパークについて調べていく中で、「奈良ドリームランド」に辿り着きました。高度経済成長の60年代、かつては国内テーマパークの草分け的な存在でしたが、現在は廃墟と化したその姿に強い興味を抱きました。
テーマパークというものは、単なるレジャーランドではなく、人類の未来生活のモデルケースとして提示されています。しかし、長い年月が流れる中で、その疑いようもなかった未来への展望が、跡形もなく崩壊してしまうことがあるのです。
「奈良ドリームランド」が廃墟と化すことは、開園当時の来場者たちは誰も想像しなかったことです。戦後復興から高度経済成長の中で、全国的に展開されていった日本のレジャーランド産業は、バブル崩壊と共に衰退の道を辿り、その多くは現在は閉園し存在していません。

私は、このことを調べていく中で、どうしても311の原発事故のことを想起せずにはいられませんでした。1945年の敗戦後、6年8ヶ月の間、連合国占領下にあった日本は、原子力の研究をすることを禁止されていました。サンフランシスコ講和条約により主権を回復した日本は、世界中で活発に勧められていた原子力研究に、遅れを取り戻さんとばかりに着手していきます。
1963年10月26日、日本に初めて原子力の火が灯った時、未来のエネルギーとして、新しいライフスタイルを求めて、日本はその道を選択して進んでいきました。双葉町の看板に掲げられていた「原子力、明るい未来のエネルギー」という標語が示すように、その疑いようもなく信じてきた未来世界は、2011年3月11日に起きた福島第一原発事故により崩壊したのだと、私は思います。

「廃墟」とは、人間がそこでの営みを放棄して立ち去った場所、人間に見放されて時間が止まってしまった(もしくは、人類史とは別の軸の時間を歩み始めた)場所なのだと思います。
人間が生み出したものは、何一つ最後まで責任を持つことが出来ません。人間の寿命がきた後も、それはそこに残り続けるからです。人類が築いてきた文明は、常にその責任を次の世代に渡して繋いできました。
永遠に完成することがない世界の中間点を常に生きる私たちは、未来世界の崩壊を目の当たりにした現在、これからどういう未来を描き、何を選択していくべきなのか?見て見ぬ振りをして、今まで通りに生きる選択肢は、もはや無いのではないか?

そういったことを思い、「廃墟化した未来世界」をテーマに、タイトルを「DREAMLAND」に変えて、本格的に制作をスタートさせました。

2018年7月2日 水江未来


映像研究家・叶精二さんによる解説

 ウォルト・ディズニーは晩年に、アメリカ合衆国フロリダ州オーランドに「EPCOT(Experimental Prototype Community of Tomorrow)」と呼ばれる実験的未来都市を築く計画に没頭していた。ディズニーランドの成功、ニューヨーク世界博覧会のパビリオン出展を経て、ウォルトが最後に目指したものこそ、テーマパークを核とした清潔で犯罪のない理想の都市建設であった。

ウォルトの死によって計画は頓挫し、現在の「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」へと変貌を遂げたが、フィルム上でファンタジーを語って来たアニメーション製作者が、その現実化と言うべきテーマパーク拡張型の都市を終局目標としていたことは興味深い。規模は比較にならないが、宮崎駿が「三鷹の森ジブリ美術館」を設計・建設・開館し、沖縄県久米島に子供たちの交流施設「風の帰る森」を計画していることなども、理想的空間の現実化という意味では似たものを感じる。

 ディズニーの夢は、結局のところ世界最大のテーマパークとして維持・継続されてはいるが、都市創造という意味では実現出来なかった。しかし、肝心のテーマパークが維持出来なくては拡張都市の展望以前に、全ての前提は崩れてしまう。経営が成り立つ間は「夢の土地」であり続けるだろうが、経営が傾けば巨大な廃墟となる可能性はゼロではない。

 「EPCOT計画」と同時期に当たる1960年代、日本国内でも「ドリームランド」と称するテーマパークが幾つも開園(奈良・横浜・藻石)し、活況を呈していた。現在の「東京ディズニーリゾート」がそうであるように、それは先進的な観光都市計画の要でもあった筈だ。各「ドリームランド」の集客は、1970年に大阪で行われた「万国博覧会」の大成功を準備するものでもあったろう。何れにしても、高度経済成長期の「明るい未来」を象徴する出来事であったと思われる。

 しかし、時を経て経済が失速すると共に「ドリームランド」各施設の鮮度も失せ、老朽化による動員減少を食い止めることは出来ず、後続の大規模な新施設との競合に敵う筈もなく、現在までに全て閉園し一部は廃墟と化している。

 水江未来監督の新作『DREAMLAND』は、90個の幾何学立体変形素材を全て手描きで作成し増殖させることで、都市の栄枯盛衰を浮かび上がらせる。フレームで括られたカラフルな色面素材による収縮変形運動の繰り返しは、アトラクションのようでもあるし、そこに集う個々の群衆の個性や欲求の体現のようでもある。

雑多な要素の集合によって無限増殖を繰り返す都市は、「近未来のライフスタイルを先取した夢の土地」というポジティプな建設性と、「価値を喪失すれば即刻廃墟」というネガティブな危険性を同時に抱え込む。そして進化と膨張の加速によって、自ら結末を引き寄せる。
 人間が天に挑んで挫けた「バベルの塔」で有名な『聖書 創世記11章』の引用も実に暗示的だ。

映像研究家・叶精二

「DREAMLAND」は、現在個展で上映とメイキング展示をしています

【DREAMLAND-水江未来のアニメーションのミライ-】

art space kimura ASK? (東京・京橋)
2018年7月2日〜14日(日曜休廊)
11:30〜19:00

ギャラリーホームページ
http://www2.kb2-unet.ocn.ne.jp/ask/2018/2018_7mizue/2018rmizue.html

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