2024年8月17日『侍タイムスリッパー』一般公開に寄せて
映画を好きになって「映画を好きになってよかった」と思うような場面はいくつか体験させてもらったけど、その中でも一番ワクワクした思い出は2018年3月18日の午後、京都から西宮に向かう高速道路を走るハイエースの中の会話だ。
当時僕は『無人島キネマ』という映画批評のポッドキャスト番組や映画ブログなんかを運営していて、その取材として安田監督にインタビューさせてもらう機会を頂いた。安田監督の学生時代の話からビデオ屋時代、未来映画社としてのフィルモグラフィまで網羅的体系的に話を聴くことができた。そのインタビューの後、沙倉ゆうのさんへのインタビューを西宮で予定していて、そこまで安田監督がハイエースで送ってくれるということで同乗させてもらった。その道中でした会話が、“安田監督の次回作の構想”についてだった。
映画ファンとして、自分の好きな映画監督とその次回作のアイデアについて語り合える機会なんて、そうそう望んで得られる機会ではない。僕は天にも昇るような気持ちで、そのアイデアへの感想や、そのアイデアに対する自分の希望なんかを夢中で話した。
「昔、倒幕派の侍と佐幕派の侍が決闘した。刀を交えたその瞬間、稲妻に打たれて現代の時代劇撮影現場にタイムスリップしてしまう、、」
そう、まさに2024年8月17日に一般公開される『侍タイムスリッパー』の構想についての会話だ。その会話から6年5ヶ月。もしその瞬間にオギャーと赤ん坊が生まれていたら、その赤ん坊が小学校に入学するくらいの時を越えて、構想が紆余曲折を経て立派な、実に立派な作品となって映画ファンの待つスクリーンに届く。
6年と5ヶ月。それまでいろんなことがあった。世は時代が平成から令和になり、かつてないパンデミックがあった。作品はその波に翻弄されながらも飲まれることなく少しずつ少しずつ前に進み続けた。安田監督自身にもいろいろあったし、助監督兼主演女優の沙倉ゆうのさんにもいろいろあったと聞く。
僕自身にもいろいろあった。離れてしまった場やあきらめてしまった夢もあった。映画業界やミニシアターがパンデミックに蹂躙される様をなすすべなく見るのが苦しくて、目を背けて映画そのものから離れた時期もあった。そんな自分が申し訳ないような気がして映画でつながったコミュニティやSNSとも疎遠になってしまった。仕事や家庭にもいろいろあった。
その間にも『侍タイムスリッパー』は前に進み続けた。映画趣味どころではなくなった僕の暮らしの中で、安田監督の根性(?)や沙倉さんの頑張る姿は、「よし俺も頑張らな」という励みになった。そして遂にひとつの作品を、文字通り「時代を越えて」世に生み出した。そのこと自体、この時点で、勇気をもらった。
「あきらめないで踏ん張り続けること」。
本当にすごいな、映画の作り手として以前に、人間の在り方として尊敬する。
そんな作品『侍タイムスリッパー』に、僕も「パンフレット原稿の執筆」という形で関わらせてもらう機会を頂いた。残念ながら8月17日の一般公開にはパンフレット販売は間に合わないようだけど、いつかそう遠くない未来に、僕の「文章で映画に関わる」という、かつてあきらめかけた夢が形になったものを、手にできる日が来ると思う。映画を好きになって、よかった。
いち作品としての『侍タイムスリッパー』は、大阪十三での初号上映から京都国際映画祭など数回観させてもらっているけど、前述してきた思い入れ抜きにしても、掛け値なく面白い作品。笑えて、ホロリとできて、グッと来る、ウェルメイドな一本。7月にカナダで開催されたファンタジア映画祭では上映後満席の観客からスタンディングオベーションの喝采を受け、観客賞金賞を受賞した。いわゆる“審査員賞”はもらえずとも、しっかり観客の支持を掴んで、「無冠かと思わせといて、最後にはチャンピオン」というアツいベタな展開も、いかにも安田監督らしい。
そんな映画『侍タイムスリッパー』が、今日2024年8月17日、池袋シネマ・ロサでいよいよ一般公開される。この文章を書いているのはその8月17日の朝6時で、僕はこの文章の投稿ボタンを押したら、名古屋から東京に向かう。お盆休み最後の週末だし、しかも台風明けなので東名高速大渋滞になってないか心配だけれど、日帰り弾丸で観に行く。
作品を鑑賞するというよりは、この作品が劇場でウケている空気を感じに行くという感じ。楽しみだ。
パンフレット原稿内容の打ち合わせで安田監督と話した時、「“侍”がいなくなり、“時代劇”もなくなろうとしているこの時代。いつかは”劇場のスクリーンで映画が観られること”もなくなっていくのかな、、」と話されていた。僕は『侍タイムスリッパー』劇中の台詞を借りて、「でも“それは今ではない”ですよね」と答えた。
いつかはそんな時代が、「映画といえば動画配信を自宅で楽しむもの」というような時代が、または「映画といえば映画屋が撮影して作るものではなく、AIが生成するもの」というような時代が来るかもしれない。
だからこそ、“侍”や“時代劇”や、そして“映画屋”の勇姿が“映画館のスクリーン”に映され、その空間を多くの映画ファンや観客と共有する体験は貴重な宝になると、僕は思う。
さぁ、そろそろ出発だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?